つげ義春と映画 

 つげ義春はその寡作ぶりにもかかわらず長年、劇画界においてカルトな人気を持ち続けている特異な作家である。 
その彼の劇画を原作にした映画に竹中直人主演監督「無能の人」と石井輝男監督「ゲンセンカン主人」がある。 
 竹中直人は、お笑いタレントから映画俳優となり、初監督作品として作ったのが、この「無能の人」であった。 
 一方、石井輝男は、新東宝から東映を経て、一貫して娯楽映画を作り続けた職人監督であり、「網走番外地」シリーズ生みの親として広く知られている。 
 そして、新東宝の伝統とも云えるエログロ風な味付けを施した彼の映画は、一部熱狂的なファンに支持されており、企業内監督でありながら、いまだにカルトな人気を保っている。 
 竹中が初監督であり、石井が30年を越えるベテランの監督であるといった対照的なふたりであるが、ともにつげ義春には長年にわたって深く傾倒しており、その映画化は彼らの念願のものであった。 
 その作品は、それぞれの持ち味によって、ともにつげワールドの映像化に成功しており、つげファンの期待を裏切らないものになっている。 
  
つげ義春は昭和30年代初頭の頃、十代で貸本漫画の描き手としてデビューしている。 
 当時の貸本業界は、ほとんどが零細な中小の出版社で構成されており、そうしたなかで漫画家として立ってゆくにはまだまだ厳しい状況であった。 
つげ義春にしても同様で、貧しさと隣り合わせの雌伏の時代であった。 
 この時代、私は小学から中学にかけての頃であり、毎日のように近所の貸本屋に通っては漫画本を借りていたが、夢中になって読んだのは白土三平をはじめ、さいとうたかお、佐藤まさあき、小島剛夕、ケン月影、南波健二などのミステリーやアクション、剣豪物が中心であり、そうした中につげの作品も含まれていただろうが、掲載の数が少なかったこともあり、残念ながら記憶にはない。 
 昭和41年から、今では伝説の劇画雑誌となった「ガロ」に描き始め、次第にその特異な作風が一部漫画ファンに注目されはじめた。 
 昭和43年に「ねじ式」を発表。 
 シュールな発想で描かれたこの「ねじ式」によって、それまで劇画の世界とは無縁であった評論家や大学教授などの知識人の注目を集めるようになり、高い評価を受けるようになる。 
 それによって一躍時代を代表する劇画家のひとりとなった。 
 漫画は、子供向けのものであるというそれまでの概念を打ち破り、知識人さえも惹きつけることができるメディアなのだということを社会的に認識させる大きなきっかけとなった。 
 特に全共闘世代と呼ばれる学生たちを強く魅了し、「つげ義春」を知らずんば学生にあらずといったような持ち上げられ方をした。 
 それは、まさに文学書や思想書と同格のものとして扱われ、難解な書物と劇画の本が違和感なく学生の手に持たれるようになったのである。 
 竹中直人や「ゲンセンカン主人」で主役の漫画家を演じている佐野史郎なども、そのような学生のひとりとしてこの時代につげ義春の世界の洗礼を受けている。 
  
つげ義春の作品は身辺雑記的なものに題材をとりながら、その現実がふと幻想的な世界と混じり合い、その境界が曖昧になるといったふうな不思議な世界を描いている。 
 夢のなかの迷路を不安定な足取りで彷徨い歩くといったきわめて現実感の薄い感覚を体験させられる世界である。 
 そしてそれが細密画を思わせる緻密に描かれた重い風景のなかで繰り広げられることで、強いリアリティをともなってわれわれに訴えかけてくる。 
 これらの物語の大半は、つげの夢や妄想から生みだされたものである。 
 そして、それが読者の無意識世界に眠る様々な衝動を突き動かし、虜にしてしまう。 
 つげの作品は、貧しいもの、みじめなもの、みすぼらしいものといったひたすら暗く沈んだ現実を描き続けるが、ただ陰鬱に暗いだけの世界ではない。 
 そこには彼特有のユーモアによる突き抜けたような明るさや、のほほんとした陽気さがある。そして、この暗さと明るさの絶妙なバランスが、つげ義春の作品に深い奥行きをもたせており、独特の強い余韻を残すことになるのである。 
一度その魅力にとり憑かれると誰しも長く後をひくことになってしまう。 
 おそらく、竹中直人や石井輝男、そして佐野史郎もこうしてとり憑かれてしまった人たちなのであろう。 

 竹中直人の「無能の人」は、つげの持つユーモアとあやしさを巧みに映像化しており、初監督作品とは思えない出来上がりで、傑作といっていい。 
 河原の石という無価値なものを売ろうとするナンセンスさや、無意味なことを生真面目にやろうとするおかしさ、哀しさが、たんたんと描かれており、竹中直人流のつげワールドになっている。 
 つげ義春がモデルと思われる売れない漫画家(竹中直人)を筆頭に、どの登場人物も浮世離れしたおかしな人間ばかりであり、生活力のない落ちこぼれ人間である。 
 そうした人物たちのナンセンスな行動が、竹中のセンスあふれるユーモアで軽妙に描かれる。 
 現実のひとこまをリアルに切り取り描いているが、それがちょっとずれて、奇妙におかしいといったつげ漫画の特徴が、都会の忘れられた風景(路地裏やそこにある古い日本の木造家屋など)やノスタルジックな小道具(柱時計などの骨董品)を配した画面のなかで静かに展開されてゆき、そのずれたおもしろさにおもわずニヤリとさせられる。 
 そして、そうした人生の敗残者とも云える人物たちに竹中の熱い声援と共感が惜しみなく注がれる。 
 つげ漫画のなかでは、人物の後ろ姿や人影、動きのない立ちつくした人物などがよく描かれるが、そうした構図もうまく映像化されており、それがただ単なる移し替えでなく、この作品のリズムにうまく溶け込んでいる。 
 それが人間存在の曖昧さ、侘びしさを感じさせ、味わい深い画面になっている。 
 こうした点に映画フリークの竹中のこだわりとセンスの良さを感じとることができる。 
 また、竹中のこだわりは出演者たちの顔ぶれにも、うかがわれる。 
 主な配役の風吹ジュン、マルセ太郎、山口美也子、神戸浩、神代辰巳、いとうせいこう、三浦友和などの個性的な俳優の他に、1シーンもしくは1カットだけ、異色のゲストたちがエキストラとして出演している。 
 荒井晴彦、泉谷しげる、岩松了、井上陽水、蛭子能成、周防正行、鈴木清順、芹明香、つげ義春、内藤陳、藤井尚之、藤原マキ、松田政男、本木雅弘、原田芳雄ら、竹中の交遊の広さを感じさせる多彩なメンバーである。  
 なにげなく観ているとほとんど見逃してしまうが、こうした出演者たちを探し出すのも興味深い。 
 このようなマニア向けと思われる仕掛けがしてあるのも竹中らしい遊びであり、こだわりである。 
 この映画は竹中流のひねったホームドラマともいえるものであり、おかしくて、やがて哀しき物語である。 
 そして、ラストで多摩川の川原から続く夕暮れの一本道を親子三人が、手をつないで遠ざかっていく画面に、ゴンチチのウクレレによる「峠のわが家」が流れると快い感動がわいてくる。 

 一方、「ゲンセンカン主人」の方は、石井監督14年ぶりの監督作品である。 
 この作品が封切られたとき、石井輝男とつげ義春の組み合わせは意外であり、少なからぬ違和感があった。 
 つげのファンの大勢は団塊の世代を中心とした層であり、それよりもかなり年齢がうえの石井では、あまりに異質に思えた。 
 しかし完成した作品は見事なつげワールドになっており、石井の並々ならぬつげへの傾倒ぶりを感じさせられた。 
 昭和40年代当時、つげが「ガロ」で精力的に作品を描き続けていた頃、石井の下についていた助監督がしきりにつげの作品を勧めたということである。 
 その助監督は直感的につげの描く世界と石井の撮る映画世界の資質の共通性を感じたそうだ。 
そして、その直感は当たっており、石井はすぐさまつげの作品の虜になった。 
 しかし、つげの作品はメジャー向けのものではなく、映画化の実現はならなかった。  そして、20数年もの歳月を経て、ようやく映画化がかなったのである。 
 この映画は「紅い花」「李さん一家」「ゲンセンカン主人」「池袋百点会」の四話からなるオムニバス映画で、主人公の売れない漫画家(佐野史郎)が、狂言廻しとしてそれぞれの話の中に登場してくるといった体裁になっている。 
この四話のなかでは、題名にもなっている「ゲンセンカン主人」が優れており、石井輝男らしいエロチシズムとスペクタクルにあふれており、両者の持ち味がうまく融合した仕上がりになっている。 
 つげ義春は地方の鄙びた温泉場を巡り歩く旅を趣味としている。 
 そして、その旅での出来事をしばしば作品にしており、この「ゲンセンカン主人」も、そうしたジャンルに入る作品である。 
 しかし、これはただの趣味的な紀行ではなく、温泉場という舞台を借りたつげ得意の妄想の世界であり、荒涼とした人間の原風景が見えてくるといった物語である。 
 その土俗的で懐かしいような官能の世界を、石井監督得意のエロチシズムあふれる映像で描いており、竹中の描いた日常性の中のつげワールドとはまた違った幻想的なつげワールドの定着を果たしている。 
 前世と今世がメビウスの環のように永遠に連鎖するといった物語が、おどろおどろしく語られる。この彷徨い歩く世界は、「ねじ式」の迷宮の世界とも共通のものであり、つげ義春の根源的な不安が生み出した世界でもある。 
 そして、その官能の世界は人生を降りてしまった男が彷徨い歩いた末にたどり着いた隠れ屋であり、安らぎである。 
 これは、いわば胎内回帰の物語である。 
石井監督は次回作に「ねじ式」を予定しており、このテーマを引き続き描くことになるわけだが、この映画化が困難と思われる物語をいったいどういうふうに撮るのか大いに興味をそそられる。 
  

 
 
 
 
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