1999年9月
 
 
 
  
9/5 ニンゲン合格
(99日本)
 
 
  
   
 14歳の時に交通事故に遭い、10年間、昏睡状態のまま眠り続けていた青年、吉井豊(西島秀俊)がある日突然回復する。  
 そして10年のブランクを抱えて社会に戻るが、彼の家族はこの10年の間にそれぞれの事情で家を出てしまい、今は父の友人である藤森(役所公司)という男だけが残された家にひとりで住んでいる。  
 豊は藤森に引き取られ、彼のやっている釣り堀を手伝いながら彼なりの社会復帰を果たそうとする。  
 というといかにも現実と格闘する青年の姿を思い浮かべてしまうが、ここでの彼はそうした深刻な頑張りや、がむしゃらさとは多少距離を置いた存在として描かれる。  
 もちろん彼なりのやり方で、かって家族がやっていたというポニー牧場なるものの再建を行ったり、ミルク・スタンドを作ったりといった行動を起こすのだが、なぜかどれもがどうでもいいといったふうな、投げやりとまではいかないが、あまり懸命とはいえない態度がその底に感じられるのである。 
 そして彼のそうした行動に合わせるように離れ離れになっていた家族たちが集まり始める様子にも同様の気分が感じられるのである。 
 疑似家族というか、それぞれが家族を演じるために一時、仮に集まったに過ぎないといった雰囲気が窺えるのである。 
 すべてが万事こういった調子で、いかにも現実感の薄い、まるで夢のなかを浮遊するかのような不確かな感覚に支配されているのである。 
 さらに脇をかためる登場人物たちも現実感の薄い、世俗を超越したような人間が大勢登場してくる。 
 豊の面倒を見る役所公司にしても、得体の知れない人物だし、妹が連れて帰ってくる彼氏を演じる哀川翔も手応えのない男で、いかにも現実社会に居場所がなさそうな奇妙な人物である。 
 さらに町で偶然知り合った洞口依子演じる女性歌手も不思議な存在である。 
 エンジン付きのスケーターに乗って登場するところからしていかにも世俗を超越した雰囲気を漂わせている。 
 そして彼女が唄う気だるく投げやりで調子はずれの歌がテーマ・ソングとして流れることで、その気分がいっそう濃厚になってくる。 
 そういったなかにあって、大杉漣演じる交通事故の加害者の男が唯一現実感を強く感じさせる存在である。 
 車で豊を轢いてしまったことで豊同様、10年という時間を失うことになったこの男の悲しみは身につまされる。 
 豊の退院時に、50万円を差し出して、「これで終わりにしてくれ」と懇願した彼が、ひょんなことで豊のやっているミルク・スタンドに客として顔を出すことになる。 
 近くの工事現場で土方仕事をやっているという男と豊の気まずい再会である。 
 そしてその夜、男はチェーンソー片手に再び店を訪れると、やにわに建物を破壊し始めるのである。 
 加害者である彼と、被害者である豊はどちらも事故によって人生を狂わせられたという点において同等であり、その片割れである豊が今や牧場やミルク・スタンドをやっており、一方自分はしがない工事現場の労働者というのでは、あまりに不公平すぎると怒りを爆発させたのである。 
  勝手な言い分ではあるが、そのいたたまれない気持ちは痛いほどよく分かる。 
 そしてこの現実原則にこだわる男の出現によって豊はもういちど現実に引き戻されることになる。 
 男の手からチェーンソーを奪い取った豊は今度は自らの手で建物を破壊し始める。 
 「そろそろ目を覚まさなければ」と言いながら。 
  それはありのままの現実を受け入れるべく決意した行為のようにも思える。 
 そして「どこか遠くに行く」ことで新たな旅立ちをしようとする。 
  「おれ、存在した?ちゃんと存在した?」と問いかける豊の最後の言葉が身に沁みる。 
 人間存在の不思議さを思わせる幕切れである。 

 とりたてて何かが起きるということもなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていく、そんな物語なのに、なぜか心に残るのである。 
  


 
製作 加藤博之 企画 土川勉/神野智 プロデューサー 下田淳行/藤田滋生
監督・脚本 黒沢清 撮影 林淳一郎 音楽 ゲイリー芦屋
出演 西島秀俊/役所公司/菅野俊/りりぃ/麻生久美子
洞口依子/哀川翔/大杉連/鈴木ヒロミツ/豊原功補
 
 
 
 
 
  
 
 
9/6 たどんとちくわ
(98日本)
 
 
  
  
 日々様々なストレスにさらされている現代人の危うい日常がふと横滑りしてしまい、一気に狂気の世界へと雪崩れ込んでいく様をブラックな笑いを交えながら描いている。 
 原作は椎名誠の短編小説。 
 現代社会のエアー・ポケットというか、逢魔が時といおうか、そうした異空間にふと紛れ込んでしまった人間の顛末が市川準らしからぬアクティブな映像によって描かれている。 
  市川準といえば「病院で死ぬこと」「東京兄妹」「東京夜曲」のように、ごくありふれた日常を静謐な映像で切り取るといった独特のスタイルをもった監督として知られている。 
 今回はそのスタイルを一変させて、これまで使ったことのない様々なテクニックを多用するというやり方でこの映画を撮っている。 
 そうした初の試みを市川監督自身おもしろがって取り組んでいるのが画面から伝わってくる。 
  
 物語は役所公司演じるタクシー運転手がキレる「たどん」と真田広之演じる小説家がキレる「ちくわ」のふたつの話からなるオムニバス仕立てになっている。 
 まず「たどん」では色とりどりの客を配することでタクシー運転手の孤独で単調な日常を浮かび上がらせる。 
 どんな客が乗り込んでこようと、彼と客との間は無縁の関係であり、狭い密室のなかで彼は完全に疎外された存在となっている。 
 客たちの意味のない会話、車窓から見える無機質な都会の風景、そういった映像を積み重ねることで彼の孤独と疲弊を強調していく。 
 そんな日常に埋もれるように彼の目は次第に虚ろで、力のないものになっていく。 
 そして、それとともに彼の空虚な心のなかのフラストレーションは確実に大きくなっていく。 
 「何もかもが自分の目の前を流れていく。いや、流れていくのは自分のほうかもしれない」といったつぶやきから次第に現実と遊離していく彼の姿が見えてくる。 
 一方、「ちくわ」の小説家のほうはというと、これは最初から変な男として登場してくる。 
 売れない小説家のひがみとプライドに引き裂かれている彼は、屈折した心を抱えて町をさまよい歩く。 
 意味不明の言葉を心に中で呟きながら現実と幻想の狭間を漂っている。 
 そして行きつけの居酒屋ののれんをくぐる。 
 と、そこは彼が慣れ親しんだ旧い佇まいの店ではなく、最近改装したらしい新しい装いの店に変わっている。 
 居心地の悪さを感じながらも、彼の作品の愛読者である店の主人(田口トモロヲ)相手に酒を飲む。 
 そして店の客たちの態度や壊れたエアコンの音を聞いているうちに次第に悪夢のような感覚に支配されていく。 
 ひたすら妄想の世界へと落ちていき、ついには店内のすべての人間が自分を陥れようと画策しているのではないかと思いこむようになっていく。 
 こうして被害妄想に囚われた彼は包丁を握りしめると自分勝手な反撃を開始する。 
 ビール瓶で客の頭を殴りつけ、包丁を見境なく振り回し、狂態の限りを尽くすのだが、これがまるで夢のなかの出来事のようにスロー・モーションで捉えられ、さらに青や緑やピンクといったペンキのような血糊が飛び散るのである。 
 果たしてこれは夢か幻か、判断のつきかねる曖昧な感覚のままに映画は進んでいく。 
 またいっぽうタクシーの運転手のほうは客(根津甚八)が自分の職業を「たどん屋」だと名乗ったことをきっかけに一気に狂気の世界へと突っ走る。 
 なぜか隠し持っていたトカレフを取り出すと、客を川原へと連れていき、「たどん屋ならたどんを作ってみろ!」と恫喝する。 
  
  こうやってキレてしまったふたりの男が惨劇の後に夜明けの海辺で偶然遭遇することになる。 
 やって来たタクシーを運転しているのは役所公司ではなく客の根津甚八のほうである。 
 停車した車から降りた役所公司は、自分の被っていた運転手の制帽を根津甚八の頭に被せ、「じゃーあな」のひとことを残すと海岸沿いを去っていく。 
 その顔はまるで憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情である。 
 さらに小説家の真田広之ほうはといえば、タクシーに乗り込むと失くしたと思っていた大切なイチモツが股間に蘇っていることを発見し、歓喜の声をあげるのである。(彼がキレたそもそもの発端が、居酒屋のトイレで自分のイチモツが失くなっているのに気づいて錯乱状態に陥ってしまったことによるものであった。) 
 妄想を爆発させたふたりがそのことによって生まれ変わってしまったかのようなラスト・シーンである。 
 夕べの惨劇は果たして夢か現実か、判然としない幕切れではあるが、そんなことは今やふたりにとってはもうどうでもいいことなのである。 
 悪夢の一夜は終わり、いまは晴れやかな今日があるばかりなのである。 
  
 それにしても真田広之の奇妙なダンスと、キレた目ツキがいつまでも心に残っている。 
 

 
製作 山地浩 企画 中沢敏明 プロデューサー 板谷健一/川崎隆
監督 市川準 原作 椎名誠 脚本 佐藤信介(たどん)/NAKA雅MURA(ちくわ)
撮影 小林達比古 音楽 板倉文 美術 間野重雄
出演 真田広之/役所公司/根津甚八/田口トモロヲ/桃井かおり
小鹿番/安部聡子/弘中麻紀/太田光/田中裕二
 
 
 
 
 
 
 
 
9/7 鮫肌男と桃尻女
(98日本)
 
 
  
  
 CFディレクターとして広告業界で活躍する石井克人監督の劇場映画デビュー作。 
 望月峰太郎原作の劇画「鮫肌男と桃尻女」をタランティーノ調のアクション映画に仕立て上げている。 
 変わった個性をもった登場人物たち、彼らの意味のない無駄話、激しい暴力描写、コミカルな笑い、いくつかのエピソードの同時進行、錯綜する時間軸、こうしたタランティーノ的手法をとりいれてスタッフ、キャストたちがかなりノッて作っているのが感じられるが、その意気込みほどの楽しさは伝わってこない。 
 ホーロー看板蒐集の殺し屋、岸部一徳、鼻の利く組長の息子、鶴見辰吾、さらに彼らに従ういずれもひとくせありそうな子分たち、こうした不思議なキャラクターをもった連中をもっとおもしろく見せられたはずなのに、いまひとつ弾け切れていないといううらみが残る。 
 おかしな連中がただ単に右往左往しているだけという印象しか残らない。 
 個性豊かな人物たちを十分に整理しきれないまま進んでいくので、どうしても話が転がらず散漫な印象だ。 
 遊び心が旺盛なのは大いにけっこうなのだが、肝心のポイントを押さえていないから、そうした遊び心が思ったほどの効果を現していない。 
 唯一印象に残ったキャラクターといえば我修院達也こと若人あきら演ずる殺し屋、山田君である。 
 けっして好きなキャラクターではないが、かなり危ないキレ方が妙に印象に残ってしまう。 
 ここまでくれば、生身の人間と云うよりも、どちらかといえばサイボーグに近いようなキャラクターといっていいかもしれない。 
 というよりも、この映画の登場人物すべてが現実感の稀薄なサイボーグ風人物といえるだろう。 
 結局、こうしたコミック風遊びの世界に抵抗なくノレるかどうかが、評価の分かれ目になってくるということだろう。 
  
 
 監督・脚本 石井克人 撮影 町田博 音楽 Dr. StrangeLOVE
出演 浅野忠信/小日向しえ/岸部一徳/寺島進
鶴見辰吾/我修院達也/島田洋八/真行寺君枝
 
 
 
 
 
 
 
 
9/8 完全なる飼育
(99日本)
 
 
  
  
 数年前に実際に起きた事件をもとに映画化した作品である。 
 中年男が妄想を実行した事件の映画化はすなわち映画を作る男たちの妄想を実現させたものともなっており、一種の夢物語といった趣の話になっている。 
 監督は和田勉、脚本が新藤兼人といった老年コンビであるが、こういう題材を選び、こういう映画に仕立て上げるということはどちらもまだまだ生々しさを失っていないという証拠であろう。 
 老いてますます盛んといったところであろうか。 
 とくに和田勉は10数年ぶりの映画であるが、さすが元NHKの看板ディレクターとして鳴らしただけあって見せ方を心得ており、話の運びにもソツがない。 
 かってのようにエネルギーが迸るといった力強さは見られないものの、やはり昔とった杵柄で、そこそこのレベルのものにはなっている。 
 誘拐犯の男を演ずるのは竹中直人、こういうふうに一見ごく普通に見えるが、実はかなりズレたところのある男を彼が演じるとよく似合う。 
 最近はハードボイルド系の役柄を演じたりもしているが、やはりこういう役のほうが彼本来の持ち味ではないかと思う。 
 そして誘拐される女子高生を演じているのが小島聖、かなりの熱演で適役である。 
 思春期特有の不安定さと大人の女の大胆さの両方を併せ持つ複雑な役柄をセクシーかつコケティッシュに演じて存在感がある。 
 監禁されるオンボロアパートの奇妙な住人たち、渡辺えり子、泉谷しげる、塚本晋也、北村一輝といった個性的な面々に互して一歩も引けを取っていない。 
 そしてこれらアパートの住人たちの奇妙な生態も浮き世離れしていて面白い。 
 とくに隣室の大学生役の北村一輝が文字通り輝いた存在である。 
 さらに塚本晋也もなかなかいい味を出しているといったぐあいで、いろんな角度から楽しめる映画になっている。 
 たまにはこういった浮き世離れした映画にゆったりと身を任せるというのもなかなか悪くない時間の過ごし方ではある。 
  

 
製作 古里靖彦/有吉司 監督 和田勉 原作 松田美知子
脚本 新藤兼人 撮影 佐々木原保志 音楽 十川夏樹
出演■竹中直人/小島聖/渡辺えり子/北村一輝/沢木麻美/塚本晋也
あき竹城/永島克/泉谷しげる/石井苗子/ガッツ石松/佐藤慶
 
 
 
 
 
 
 
 
9/9 ユー・ガット・メール
(98アメリカ)
 
 
  
  
 ノーラ・エフロン、トム・ハンクス、メグ・ライアンの「めぐり逢えたら」のトリオが再び組んだロマンティック・コメディである。 
 「めぐり逢えたら」で顔も知らない者同士の恋物語を作り上げたように、今回も同様のルーティンである。 
 「めぐり逢えたら」ではラジオが媒体になっていたが、こちらは今風にインターネットがその役割を担う。 
 そして舞台はシアトルからニューヨークに移る。 
 現実には大型書店のオーナーと小さな老舗書店のオーナーという商売敵同士の関係でありながら、Eメール上ではともに理想の相手として惹かれ合うといった関係がロマンティックかつコミカルに展開されていく。 
 そんなふたりがどうやって相手のことを知り、結ばれるようになるのかが最大のポイントになるが、ラブ・ストーリー一筋のノーラ・エフロンはツボを押さえた展開でソツなくまとめあげている。 
 「めぐり逢えたら」よりも数段出来がいい。 
 甘く切ない現代のお伽噺に気分良く酔えること請け合いである。 
 ニューヨークの街並みが美しい。 
  
 これはエルンストン・ルビッチの「街角」が元ネタになっている。 
  

 
製作総指揮 ジューリィ・ダーク、G・マクブラウン 脚本・製作総指揮 デリア・エフロン
監督・製作・脚本 ノーラ・エフロン 製作 ローレン・シューラー・ドナー
撮影 ジョン・リンドリィ 美術 ダン・デイビス 音楽 ジョージ・フェントン
出演 トム・ハンクス/メグ・ライアン/パーカー・ポージー/ジーン・ステイプルトン
スティーブ・ツァーン/デイブ・チャペル/グレッグ・キニア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9/10 天使が見た夢
(98フランス)
 
 
  
  
 この映画を観ながらフランス映画「冬の旅」やイギリス映画「バタフライ・キス」「キャリア・ガールズ」といった映画のことを思い出していた。 
 もちろん内容や表現方法はそれぞれに違ってはいるが、若い女性ふたりが出会い、ともに孤独や不安を癒しあうといった青春像がどの映画にも描かれているといったことからの連想である。 
 そして同時に青春の自由さや未熟さが切ないほど伝わってくるところにも共通性を感じるのである。 
  
 バックパックひとつで自由な旅を続けるイザ(エロディ・ブシェーズ)は訪れたリールの町で暗い表情をしたマリー(ナターシャ・レニエ)と知り合う。 
 行く当てのないイザはマリーが留守番役として住み込んでいるアパートに転がり込むことになる。 
 こうしてふたりの自由で気ままな共同生活が始まっていく。 
 そしてお互いの心の隙間を埋めるような友情関係ができあがっていくのである。 
 だが、マリーが金持ちの息子クリス(クレゴワール・コラン)に夢中になったことから、その関係が次第にギクシャクしたものになっていく。 
 クリスが遊びでしかないということに気づきながらもマリーはどうしようもなく恋にのめり込んでしまう。 
 そんなマリーを不安に思うイザがなにくれとなく彼女に忠告するが、頑ななマリーは聞こうとはしない。 
 いや、頑なに目の前の事実から目をそらそうとさえするのである。 
 そして事態はますます深刻な様相を見せていく。 
 最初は堅実でしっかり者に見えたマリーが実は感情に溺れやすく弱い面をたくさんもっており、いっぽう何をやっても不器用で、その日暮らしのイズが意外にも物事の本質を見極める冷静さを身につけているといった側面が浮き彫りにされてくる。 
 このあたりの描き方はなかなかにうまい。エリック・ゾンカ監督の力量を感じさせられるところである。 
 こうした対照的なふたりがともに悩み苦しむ姿がヨーロッパ映画独特のリアルで静かな映像によって語られていく。 
 そして同時にふたりが住むアパートの本来の持ち主である母娘とイザとの奇妙な関係も平行して描かれていく。 
 マリーから交通事故で入院中と聞かされていた母娘をイザが訪ねてみると、母親はすでに死んでおり、残された娘サンドリーヌは未だ植物状態のままでいる。 
 何の面識もないイザだが、自分と同年代のサンドリーヌの日記をアパートで偶然見つけ、そっと盗み読んだことから親近感をおぼえ、この奇妙な病院通いが始まるのである。 
 それはまるで長年の親友でもあるかのような献身ぶりである。 
 そしてサンドリーヌに替わってイザが彼女の回復を祈るかのように日記の続きを書き進めていくのである。 
 サンドリーヌの状態は時には回復の兆しを見せ、また時には危険な状態を迎えるといった一進一退を繰り返しながら最終的には回復への大きな希望を見せるようになっていく。 
 そしてそれによってマリーとの生活で落ち込んでいたイズの心が少しずつ癒されていく。 
 一方マリーはクリスとの恋によって心がズタズタになり、すべてを失ってしまう。 
 その結果、イズとマリーの自由気ままで夢のような共同生活にも終止符が打たれることになる。 
 苦い青春の一ページが終わりを告げ、イズは新たなる旅立ちをすることになる。 
 絶望と希望という相反する余韻を残して映画は終わる。 
 どういう形であれ、人が一度は感じるに違いない青春の痛みや輝きが気負うことのないしかし熱い視線で描かれており、確実なものとして伝わってくる。 
  
 主演のエロディ・ブシェーズ、ナターシャ・レニエの二人は1998年のカンヌ国際映画祭で主演女優賞をダブルで受賞しているが、それが当然と頷けるような確かな演技である。 
  

 
製作 フランソワ・マルキ 監督・原案・脚本 エリック・ゾンカ
協力・脚本協力 ヴィルジニー・ヴァゴン 脚本 ロジェ・ボーボ
撮影:アニエス・ゴダール 美術 ジミー・ファンステーンキステ
出演 エロディ・ブシェーズ/ナターシャ・レニエ/グレゴワール・コラン
パトリック・メルカド/ジョー・プレスティア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9/13 マトリックス
(99アメリカ)
 
 
  
  
 いやあー、おもしろかった。 
 SFX映像、アクション、ミステリー、どれをとっても一級品の出来で、思い切り堪能させられた。 
 ワイヤーを使ったカンフー・アクションという斬新な方法を駆使することでこれまでにないダイナミックな動きを可能にしており、しっかりと異次元体験を味あわせてくれる。 
 処女作「バウンド」で華麗な映像を見せてくれたウォッシャウスキー兄弟がさらに研きをかけた映像を実現しているのである。 
 地球を滅亡から救う救世主を時空を超えて捜し出すという発想は「ターミネーター」からの引用であろうが、それをさらに複雑な内容に組み替えており、単なる引用だけではない独創性を備えている。 
 また主人公ネルの真の誕生場面などもケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」を思わせるような映像である。 
 ネバネバの羊水から目覚めるところなどはまさに「フランケンシュタイン」テイストである。 
 さらに日本の劇画やアニメ、とくに「AKIRA」や「甲殻機動隊」といった作品によって大きくインスパイアされたということをウォッシャウスキー兄弟も語っている。 
 ウォシャウスキー兄弟の豊かな映画知識の蓄積を感じさせられる。 
 だがこういった引用も彼ら流に咀嚼された形で物語のなかに組み込まれいるので、違和感はない。 
 むしろそれを新しい映像表現へと結びつけていく独創性こそが素晴らしい。 
 2作目にしてこれほどの作品を作り上げるとは、今後、さらにどんなものを見せてくれるのか、大いに楽しみな監督たちである。  
  
 
製作総指揮 バリー・M・オズボーン/アンドルー・メイソン
ラリー・ウォシャウスキー/アンディ・ウォシャウスキー
アーウィン・ストフ/ブルース・バーマン 製作 ジョエル・シルバー
監督・脚本 アンディ・ウォッシャウスキー/ラリー・ウォッシャウスキー
撮影 ビル・ポープ 編集 ザック・スティンバーグ 美術 オーウィン・パターソン
視覚効果監修 ジョン・ゲイター 作曲 ドン・デイビス
カンフー・コレオグラファー:袁和平/ユアン・ウー・ピン
出演 キアヌ・リーブス/ローレンス・フィッシュバーン/キャリー・アン・モス
ヒューゴ・ウィービング/グローリア・フォスター/ジョー・パントリアーノ
マーカス・チョン/ジュリアン・アラハンガ
 
 
 
 
 
 
 
 
9/20 ノッティングヒルの恋人
(99アメリカ)
 
 
  
  
 先日観た「ユー・ガット・メール」に続いてまたまた現代のお伽噺のようなラブ・コメディーである。 
 「逆シンデレラ・ストーリー」ともいうべき物語、イギリスはノッティングヒルの小さな本屋のオーナー(ここでも「ユー・ガット・メール」同様またまた本屋という設定である)がハリウッドの超有名女優と恋におちるという話である。 
 ほとんど現実にはあり得ないような夢物語がジュリア・ロバーツとヒュー・グラントによって演じられるとひょっとするとこういう話もあり得るかも知れないなどと思えてくるから不思議である。 
 ヒュー・グラントの誠実な表情とジュリア・ロバーツの情熱的な眼差しを見ているとそうした垣根を越えた恋愛がなんの不自然さも感じさせないで迫ってくる。 
 ちょっと間違うと嘘臭く、白けてしまう類のお話がなかなかうまい展開で見せてくれるので、この現実離れした夢物語に思いっきり身を委ねることができるのである。 
 そして恋の行方の成就を願わずにはいられなくなってくる。 
 シナリオを書いたのが「フォー・ウェディング」の脚本家ということで、話の展開のうまさには納得、さらに彼らを囲む個性的な友人たちの造型のうまさも実にいい味付けになっている。 
 こうしたノッテイングヒルの住人たちを交えたエピソードをちりばめることでハートウオーミングな雰囲気がいっそう増しており、愛すべき物語になっている。 
 そしてラストのホテルの記者会見の場面になると先が読めているにもかかわらず(いや、だからこそというべきであろうか)思わず涙がこぼれてしまったのである。 
 この場面はまさに「ローマの休日」の焼き直しであり、あの映画ではそこが永遠の別れの場面となったのだが、こちらではふたりの愛の仕上げの場面となっている。 
 そしてそれに続く愛のプロローグの映像でふたりのその後の幸せを描いて終わるのだが、これは「ローマの休日」での実らなかった愛を作者なりに実らせようとの願いがこめられているのかもしれないなどと想像してしまった。 
 さらにノッティングヒルの美しい街並みとエルヴィス・コステロが歌う甘いメロディがこの夢物語をさらに味わい深いものにしているのである。 
 とにかく後口のいいドラマである。 
 ジュリア・ロバーツの映画のなかではこれがベストではなかろうか。 
 さらにヒュー・グラントの映画でも。 
 実はこのふたりはどちらかといえばあまり好きな俳優ではなかったのである。 
 ジュリア・ロバーツのほうは「プリティ・ウーマン」「愛がこわれるとき」「ペリカン文書」「ベスト・フレンズ・ウェディング」「陰謀のセオリー」等々、どれを観てもあまりよくは思えなかったのだが、この映画での彼女はなかなか魅力に溢れ、実にいい。 
 そしてヒュー・グラントのほうも当初は変にまぬけでお人好しに見えていたものが「ウェールズの山」あたりから次第に印象が変化し始め、「いつか晴れた日に」で好印象をもち、「ボディ・バンク」の誠実な医者ではすっかり彼の魅力を見直してしまったのである。 
 そしてこの映画でまたあらためてその魅力を再認識したようなわけである。 
 プライベートではスキャンダラスなことですっかりミソをつけてしまったようではあるが、やはり役者としは捨てがたい魅力をもっている。 
 といったことで、あまり期待しないで観に行った映画であったが、これはなかなかの掘り出し物であった。 
  

 
製作総指揮 テイム・ビーバン/エリック・フェルナー
監督 ロジャー・ミッチェル 脚本・製作総指揮リチャード・カーティス
撮影マイケル・コールター 音楽 トレバー・ジョーンズ 美術 スチュアート・クレイグ
出演 ジュリア・ロバーツ/ヒュー・グラント/リス・エヴァンス/ジーナ・マッキー
ティム・マッキンリー/エマ・チャンバース/ヒュー・ボーンヴィル/ジェームズ・ドレイファス
 
 
 
 
 
 
 
 
9/21 女と女と井戸の中
(97オーストラリア)
 
 
  
  
 オーストラリア映画、監督はこれが長編デビューとなるサマンサ・ラング、女性監督である。 
 青を強調したフォトジェニックな映像が冷たく冴えた印象と謎めいた雰囲気を醸し出しており、期待させるものがあったのだが、その後の展開がどうにもついていけない内容で、正直いって疲れてしまった。 
 まず主役であるふたりの女性の関係が曖昧で、表向きは家政婦と雇い主という関係であるのだが、どうやらレスビアンらしい含みを持たせている。 
 しかしそのことは曖昧なままで、それ以上の説明はなされない。 
 敢えてそこを謎のままに伏せておくことがあるいは監督のねらいなのかもしれないが、そのことによって観ているこちらはずっともどかしい思いをするばかりである。 
 知的なものも感じさせるハイミスのヘスターが若いフーテン娘のキャサリンにどうしてそこまで入れあげなければならないのか、そのへんの心理に納得のいくものが見られない。 
 また途中までは果たしてミステリーなのかホラーなのか判然としないといった内容なのである。 
 結局どこに視点を置いて観ればいいのか、定まらないままに終わってしまったというところである。 
 意欲だけが先走りしてしまった作品というのがこの映画を観た印象であった。 
  

 
監督 サマンサ・ラング 脚色 ローラ・ジョーンズ
出演 パメラ・レイブ/ミランダ・オットー/ポール・チャブ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9/22 イン&アウト
(97アメリカ)
 
 
 

  
 現代アメリカ社会でホモ・セクシュアルの問題がいかに身近で重大な問題かということがこの映画を観ているとよくわかる。 
 けっして他人事ではなく、ひょっとすると明日にでも自分たちの身の回りでも起きるかも知れないといった感覚が伝わってくる。 
 いわゆるカミング・アウトというものが今やけっして物珍しいものではなくなったということが笑いのなかから見えてくる。 
 そしてただ単に忌み嫌うことや、隠し通すということだけでこの問題をかたずけるのではもはや何の解決にもならないのだという姿勢が同時に見えてくる。 
 マッチョな俳優であるトム・セレックや、いかにも模範的なアメリカ人といった設定の主人公、ケビン・クラインがカミング・アウトすることで問題の根の深さが伝わってくるという仕掛けがなされている。 
 それだけ性というものはデリケートな問題であり、またなかなか偏見を捨て去り難い問題だということであろう。 
 現実はこの映画のように最後に全員が大円団でハッピ−に踊り狂うというわけにはいかないだろうが、せめて映画の中だけはこうありたいものだといった願いが込められているのであろう。 
  
 ケビン・クラインの奮戦ぶりが面白く、かつ可愛らしい。 
  

 
製作総指揮 アダム・シュローダー 製作 スコット・ルーディン
監督 フランク・オズ 脚本 ポール・ラドニック 撮影 ロブ・ハーン
音楽 マーク・シャイマン 美術 ケン・アダム
出演 ケビン・クライン/ジョーン・キューザック/トム・セレック/マット・ディロン
デビー・レイノルズ/ウィルフォード・ブリムリー/ボブ・ニューハート
 
 
 
 
 
 
 
9/23 チェイシング・エイミー
(98アメリカ)
 
 
  
  
 今を生きる現代アメリカの生きのいい若者たちの恋模様である。 
 昨日観た「イン&アウト」もゲイの問題を描いた映画だったが、こちらも同じくゲイの女の子が主人公である。 
 性的に自由なアリッサ(ジョーイ・ローレン・アダムズ)は10代の頃から様々な性体験を経験しており、平均的な青年であるホールデン(ベン・アフレック)がそんな彼女に一目惚れをしたことから巻起こる恋模様が生き生きと描かれている。 
 しかし奔放な性体験を積んではいても彼女は「本物の恋」を真剣に求めている女の子だ。 
 そんな彼女がゲイを承知で友達としてつき合いだしたホールデンの真剣な愛の告白に心を動かされ、戸惑いながらもホールデンを愛するようになっていく。 
 実は彼女は生来のレスビアンというわけではなく、これまでにも数々の男との性体験も経験しているのだが、今はレスビアンとしてのみ生きているといったことが分かってくる。 
 そしてホールデンがそのことを相棒のバンキー(ジェイソン・リー)から聞かされたことからさらに新たな悩みにとりつかれることになっていく。 
 男との経験はないと聞かされていたホールデンは女性との経験に対しては寛大だったにもかかわらず、内心穏やかではいられない。 
 そしてついにその不満を彼女に対してぶつけてしまう。 
 だがそんな彼の態度が逆に彼女から手厳しく批判されることになる。 
 彼女は云う。「確かにこれまで様々な性体験をしてきたが、それはすべて自分から進んで選択してきたことであって、人からとやかく云われることではない」と。 
 「愚かしい選択や失敗はあったけれど、それはどんなセックスが自分にあっているかということをいろいろと試そうとしていただけで、その結果あなたという理想の相手と出会えたのだ。そんな過ぎ去った過去のことなど今の自分にとってはどうでもいいことなのだ」と涙ながらに訴えるのである。 
 そうした自分の生き方を毅然と言い切る彼女の姿は逞しい。 
 ただ単に性にルーズなだけの女の子ではないということが、よく分かる。 
 その生き方の根底に自分に正直であろうとする真剣さが感じられる。 
 そしていつの間にかそんな彼女のまっすぐな生き方に強い共感を覚えてしまう。 
 このシナリオを書いたのは監督でもあるケヴィン・スミスであるが、こうした描写を見ていると並ではない才能を感じさせられる。 
 さらに彼はホールデンが描くマンガのモデル役としても出演しており、悩めるホールデンに味のある忠告をすることになるのだ。 
 彼は云う。昔、エイミーという奔放な性体験をもつ女性とつき合っていたが、ある時、彼女の昔の性体験を聞いたことからふたりの関係がおかしくなり、ついにふたりは別れることになってしまった。 
 彼女の性体験に比べて性的に未熟であった彼は負い目からつい彼女を「アバズレ」と罵倒してしまったのである。 
 だが、別れた後に考えてみると、彼女は自分に対してセックスを求めていたのではなく、ほんとうは彼自身を求めていたということに気づいたというのである。 
 そしてそれに気づいたときはもう手遅れだった。それ以来、自分はいつもエイミーの面影を追い続けているのだと。 
 なんとも胸に響いてくる話ではないか。 
 だが、こんな貴重なアドバイスをもらったものの、結局アリッサとホールデンは別れることになってしまうのだ。 

 実によくできた話である。 
 セックスについての大胆で過激な会話、しゃれたセリフ、リアリティのある生きたセリフ、そういったものが次々と飛び出してきて、聞いているだけでも飽きない。 
 とくにアリッサとバンキーがお互いの傷跡を見せ合いながら性体験の失敗比べを繰り広げるところなどは「ジョーズ」でのロバート・ショーとリチャード・ドレイファスの傷跡比べを彷彿とさせて印象に残る。 
 いかにも性に対しておおらかな今どきの若者の生態が垣間見られるといった場面である。 
 笑い転げるふたりの横で苦虫を噛みつぶしたような表情のホールデンがひとり取り残されているといった図がなかなか笑える。 
 そこから彼らの生き生きとしたリアルな姿が浮かび上がってくる。 
 さらに出演者の顔ぶれもなかなかいい。 
 とくにアリッサを演じたジョーイ・ローレン・アダムズが強い印象を残す。 
 強靱さと柔軟性を併せ持ち、ひたすら自分流の生き方を貫いていく姿は爽やかである。 
 さらにホールデン役のベン・アフレックもなかなかいい味を出して好印象である。 
 彼の役名が「ライ麦畑でつかまえて」の少年の名前と同じというのも面白い。 
 いかにも悩める若者の象徴のようなこの名前がついているところが案外ミソなのかもしれない。 
  


 
製作総指揮 ジョン・ピアーソン 製作・編集 スコット・モージェ
監督・脚本・編集 ケヴィン・スミス 撮影 デヴィッド・クライン
美術 ロバート・“ラットフェイス”・ホルツマン 音楽 デビッド・ビルナー
出演 ベン・アフレック/ジョーイ・ローレン・アダムズ/ジェイソン・リー
ドワイト・ユエル/ジェイソン・ミューズ/ケイシー・アフレック
 
 
 
 
 
 
 
 
9/29 ベルベット・ゴールドマイン
(98イギリス)
 
 
  

  
 70年代初頭に華開いたグラム・ロックのスター、デビッド・ボウイをモデルにした話題のイギリス映画「ベルベット・ゴールドマイン」をようやくにして観た。 
 この時代を大学生としてリアルタイムに経験していたにもかかわらず、グラム・ロックに関してはまったく関心が無く、詳しい知識も持ち合わせていないので当時の音楽シーンに関しては正直いってよくわからない。 
 だから登場人物のモデルや当時のエピソードがどのように映画に取り入れられているのかといった事実とフィクションの重なり具合の微妙なおもしろさなどもよくはわからない。 
 だが、既製のものを疑い、新しいものを生み出そうと模索していた時代の熱気だけは直に味わっていただけによく判る。 
 そうした時代の華やいだ気分がここでは見事に再現されている。 
 光り物のコスチュームや化粧、厚底のロンドンブーツにベル・ボトムといったファッションや若者たちの過激で自由な生き方にそれを見ることができる。 
 そしてその過激で自由な生き方ゆえに自滅していかざるをえない結末にも時代の痛みを感じることができるのである。 
  
 監督のトッド・ヘインズは自らゲイであると公表しているだけあって主人公ふたりのホモ・セクシュアルな関係もスキャンダラスではあるが描き方は変に気張ってはいない。 
 そしてそのふたりを演じるジョナサン・リース・マイヤーとユアン・マクレガーが輝いている。 
 ともにステージでの見事な歌声とパフォーマンスを披露してくれる。 
 こうしたキャスティングにもトッド・ヘインズの趣味の好さを感じることが出来る。 
  
 この映画ではモデルとなったデビッド・ボウイの協力はいっさい得られなかったそうだが、その変わりと言っては何だが、ボウイに強い影響を与えた舞台演出家でダンサーであるリンゼイ・ケンプが出演して華麗なパフォーマンスを見せている。 
 リンゼイ・ケンプ・カンパニーによる映画「真夏の夜の夢」でも彼の耽美的な世界を見ることはできるが、ここでの彼の姿もなかなか貴重なものといえるだろう。 
  

 
 監督・脚本 トッド・ヘインズ 撮影 マリース・アルベルティ
衣装デザイン サンディ・パウエル メイクアップ・ヘアデザイン ピーター・キング
出演 ジョナサン・リース・マイヤース/ユアン・マクレガー/クリスチャン・ベール
トニー・コレット/エディ・イザード/ミッコー・ウエストモレランド/リンゼイ・ケンプ
 
 
 
 
 
 
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