映画日誌
 
1998年2月
 
 
 
  
2/1 コーカサスの虜
(96カザフスタン)
 
  

 たまには思いっきり辺境の国の映画を観るのもいい。 
 普段馴染みのない国の映画というのは予備知識がないだけにいったいどんな映画だろうかと期待と不安が相半ばする。 
 「コーカサスの虜」はカザフスタンの映画である。 
 ソ連崩壊後、ソ連はいくつかの国に分かれてしまい、どの国がどこに位置するのかいまだによくわからない。 
 もともとソ連の地理には明るくないところへもってきての分割なので、よけいに複雑であやふやである。 
 だからカザフスタンといってもどんな国でどのあたりにあるのか皆目見当もつかない。 
 とにかくコーカサス地方という名称を知っている程度の知識しかないのである。 
 この映画はそのコーカサスの民族紛争で敵方のチェチェン人に捕らえられた2人の兵士の物語である。 
 まだ軍隊に配属されたばかりの若い兵士と軍隊経験の長い老練な兵士が捕虜として捕らえられ、チェチェン人たちが住む山岳の村に幽閉される。 
 そしてそこを脱出するまでの日々がドキュメンタリーのようなタッチで淡々と描かれている。 
 ふたりの兵士の恐れや戸惑い、希望や絶望、さまざまな感情が錯綜するなかで次第に彼らと村人たちの奇妙な交流が始まっていく。 
 時には人間同士として親しみをもって、時には敵同士として憎しみ合って。 
 ある時は戦いなど嘘のように思えるほど平和な時間であったり、逆に死を意識せざるをえないような切迫した場面であったりする。 
 そんな村人と兵士の交流の中心に描かれるのがチェチェン人の少女と若い兵士との言葉少ないふれあいである。 
 それは淡い恋心を感じさせるようなふれあいであり、殺伐とした紛争を忘れさせるようなエピソードである。 
 村人たちの日常がこうしたエピソードをからめながらゆったりとした時間の流れで描かれていくが、そんな画面を見ているとこの平穏な時間が永遠に続いていってしまうのではないかというような錯覚に陥ってしまう。 
 しかし冷酷な現実が不意打ちのようにして突然にやってくる。 
 捕虜交換という方法で平和的に解決するのではないかと思われた計画も、一発の銃弾によってもろくも崩れ去ってしまう。 
 取引の失敗によって古参兵は秘かに処刑されてしまい、引き離されて幽閉されていた若い兵士もとうとう死を覚悟することになる。 
 「殺さないで」という少女の訴えを無視して父親が若い兵士を人気のない村外れに連れていく。 
 その背中に銃口をむける。 
 そして引き金を引こうとする。 
 だが結局引き金を引くのをやめ、彼は兵士を解放してやるのである。 
 思いがけず助けられた兵士は疲れた足どりで、だがひたすらに故郷を目指して歩いていく。 
 そして彼がいくつかの山道を越えたとき突然頭上に味方の爆撃機が現れる。 
 それは村を爆撃するために飛来した爆撃機である。 
 とっさにそれを悟った兵士はなんとか押しとどめようと懸命に手を振る。 
 「やめろ、攻撃するな」兵士の叫ぶ声が空しく響く。 
 だが爆撃機はそんな兵士の必死の願いとは無関係に飛び去ってしまうのである。 
 それはあの奇妙な交流のあった村の人々の生を確実に奪い取るにちがいない。 
 苦く重い幕切れである。 
 



 
 
 
 
 
 
2/3 ダンテズピーク
(97アメリカ)
 
  
 
 火山噴火の映画「ダンテズピーク」のビデオを借りてくる。 
 この手のパニック映画はどの程度火山噴火の迫力と怖さが出せるかが決め手になるが、残念ながらこの映画ではあまり成功しているとは言い難い。 
 SFXの技術の進歩で、かっては考えられなかったような映像が手軽に作り出せることから、最近の映画はその種の見せ場を連発するが、観客もそんな映像にはすっかり慣れてしまって、少々の場面では驚かなくなっている。 
 作り手はあの手この手のアイデアを競うが、派手な映像だけではもはや観客を満足させられなくなってきている。 
 遊園地の乗り物と同じで次々と新手の乗り物を登場させて好奇心を煽るが、あっというまに飽きられてしまい、また新たな乗り物が登場するということの繰り返しである。 
 びっくりするような派手な仕掛けで驚かすだけでは結局すぐに飽きられてしまう。 
 そうなるとやはり大事なのは人間のドラマということになる。 
 そのドラマを盛り上げるためにスペクタクルがあるというのが本来の形であろう。 
 あくまでも基本は人間のドラマということだ。 
 「ダンテズピーク」ではその肝心のドラマがいまひとつである。 
 噴火の怖さが伝わらないのも当然であろう。 
 物見遊山だけの映画ではだめなのだ。 
 

 
 
 
 
 
2/5 誘拐
(98日本)
 
 
 
 渡哲也、久々の主演映画「誘拐」を観る。 
 大企業の重役が誘拐され、その身代金の受け渡しのために犯人の指名を受けた男が数億円の現金が入った重い鞄を抱えて銀座の雑踏を歩く。 
 そしてその様子を犯人の指定に従って何台ものテレビカメラや報道カメラが追いかける。 
 このシーンの撮影のために日本撮影監督協会のバックアップで十数人の現役カメラマンが集められ、銀座のど真ん中で一大ロケーションを敢行した。 
 最近ではめずらしく規模の大きなロケーションということで話題になり、マスコミでも大きく取り上げられた。 
 また映画のセールス・ポイントとしてテレビ・スポットでこの場面がよく流されたこともあり、けっこうおなじみの場面になっている。 
 そして映画のなかでもこれが前半部分の最大の山場になっており、実際の誘拐事件でも最大の難問と言われる身代金の受け渡しがよく考えられたトリックによって行われる。 
 そしてそのトリックを解くことが犯人へとたどりつく鍵になっており、意外な結末への伏線にもなっている。 
 うまくできたトリックと迫力ある群衆シーンで前半部分はぐんぐんと引きずり込まれる。 
 だが後半に入ると勢いは衰えて、残念ながら急にトーン・ダウンしてしまう。 
 そして単なる謎解きだけで終わってしまったという印象が強い。 
 せっかくここまでよく練られた話なのに残念である。 
 なんとかもうひと工夫がほしかったところである。 
 

 
 
 
 
 
2/6 イングリシュ・ペイシェント
(96アメリカ)
 
  

 昨年度のアカデミー作品賞を受賞した「イングリシュ・ペイシェント」をようやくにして観た。 
 アカデミー賞の九部門を受賞したという話題の映画だが、なぜかこれまであまり観る気にならなかった。 
 どういうわけでそうなのかは説明しづらい。 
 直感のようなものがそうさせるとでもいおうか。 
 とにかくあまり気持ちが動かなかったのである。 
 そんなわけで、いままで手をださずにいたのだが、やはり映画ファンとしては話題作には目を通しておかなければということで遅ればせながらビデオを借りることにした。 

 第二次大戦中のアフリカで飛行機の墜落事故で重傷を負ったパイロットと彼を看護する看護婦のそれぞれの恋が過去と現在を行き来しながら重層的に描かれていく。 
 そしてそのイギリス人の患者(イングリッシュ・ペイシェント)の口から語られる激しい恋の物語を聞いていくことで看護婦が次第に力強く変化していく。 
 灼熱の砂漠を流麗なカメラワークでとらえた映像は官能的で美しい。 
 そしてその官能的な映像によってアフリカのエキゾチシズムあふれる世界が描かれることで人妻との恋がよりいっそう狂おしいものとしてあぶり出されてくる。 
 重厚な作りの映画であり、見せる要素もたくさんある。 
 確かにアカデミー賞を獲得するのに値する映画なのだろうが、なぜか心躍らないままに終わってしまった。 
 観る前に感じていた予感が的中したわけである。 
 世間的に評価が高いものだとしてもやはり好き嫌いというのはあるわけで、個人の趣味嗜好は千差万別ということである。 
 逆に世間的に評価が低いもの、あるいはほとんど取り上げられることさえないようなもののなかに思いもかけずにいいものを見つける時があり、そんな時は言いようのない満足感に満たされることになる。 
 こうした発見こそが映画ファンとしての醍醐味というものなのかもしれない。 
 そしてそんな体験をたくさん味わいたいがために様々な種類の映画を幅広く観ようとするのである。 
 もちろん外れることのほうが圧倒的に多いということはいうまでもないことだが。 
 



 
 
 
 
 
2/7 チャイニーズ・ブッキーを殺した男
(76アメリカ)
 
 
 
 俳優のかたわらインディペンデント映画を撮り続けたジョン・カサベテスが1976年に撮った作品である。 
 ジョン・カサベテスの映画といえば、そのほとんどの作品が妻であり女優でもあるジーナ・ローランズを主役に起用しているが、この 映画ではめずらしくこれもカサベテス作品ではお馴染みのベン・ギャザラが主役を演じている。 
 彼がナイト・クラブのオーナーで、賭博の借金の肩代わりにマフィアからある人物の殺害を依頼される男を演じている。 
 そのターゲットとなる人物が、暗黒街のボス、チャイニーズ・ブッキーという男であった。 
 ベン・ギャザラが単身チャイニーズ・ブッキーの屋敷に忍び込み、殺害に成功するが、今度はギャザラ自身が狙われるようになる。 
 こうした話がニューヨークの夜の闇の中で展開していく。 
 しかし彼の映画を語る際、重要なのはこうした物語の展開よりもむしろスクリーン上に展開される世界の肌触りや質感といった彼独特の映像や時間の感覚といったものである。 
 彼の映画手法の特徴で第一に挙げられるのはインプロヴィゼーション(即興)である。 
 モダン・ジャズの奏法としてよく知られるインプロヴィゼーションの精神をジョン・カサベテスは自身の映画創作上の大きな武器としている。 
 その方法の第一として彼は、気心が知れ、彼の創作意図を深く理解する俳優と徹底的な話し合いをすることでシナリオを作っていく。 
 そしてその肉声のようなシナリオをもとにカメラの前に立つ俳優たちがあたかも今現在生きてあるかのようなきわめて自然な演技を引き出していく。 
 それはまるでドキュメンタリー映画のような画面であり、俳優たちが演技をしているなどとは思えないようなリアルな画面になっている。 
 手持ちカメラが時にはぶれ、時には焦点が合わずにぼやけ、また照明がハレーションをおこし、また人物が物に遮られて見えなくなりといったように普通の劇映画の感覚からは考えられないような画面が再三にわたって登場する。 
 しかしそうした荒っぽい画面が不思議な力強さとリアルさを醸し出す。 
 この「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」の場合でも、われわれ観客がカメラと一緒に本物の犯罪の世界に侵入していくようなリアルな印象を持たされるのだ。 
 とくに夜の街をさまよって、チャイニーズ・ブッキーの屋敷を探し当て、殺害にいたるまでのシークエンスの迫力はこうした技法ならではのものである。  
 またこうした映画手法はわれわれ観客に主体的な関わり方や視線を要求してくるのである。 
 ウエルメイドな映画における安心感や身を委ねる心地よさとは対極にある姿勢をわれわれ観客は持たねばならない。 
 でなければいつのまにかはぐらかされてしまうということになりかねないのである。 
 次は何が起こるのか(あるいは起きないか)およそ予測のつかない事態が進行していく。 
 そして予定調和のドラマに慣れたわれわれの感性をことごとく裏切っていくのである。 
 しかしわれわれがいったん主体的な視線を持つことで独特の映画体験を味わうことができるようになるのだ。 
 さらにこの映画体験が映画を見終わった後も長く後を引くということも付け加えておかなければならないだろう。 
 そして幾度となくそれを反芻することでまた新たな発見をすることになるのである。 
 

 
 
 
 
 
2/9 眠る男
(97日本)
 
 
 小栗康平の「眠る男」が新作ビデオで出たのでさっそく借りてみることにした。 
 事故による脳の障害で眠り続ける男が主人公の映画ということで、はたしてそんなものが映画になるのだろうかという危惧があったのだが、やはり予感していた通りのよくわからない映画であった。 
 小栗康平監督の映画は宮本輝の小説を映画化した処女作「泥の河」がいちばんよく、次が二作目の「伽椰子のために」そして三作目の「死の棘」と作る度にそのよさが落ちていく印象がある。 
 しかし批評家たちの評価は逆に上がっていき、いまでは彼は日本映画の芸術派の代表選手のような立場に祭り上げられてしまっている。 
 だが彼の映画は次第に袋小路のようなところに入り込んでしまい、ますます解りにくい世界に入ってしまったように思われてならない。 
 たとえよく解らない映画であっても、強いエネルギーの放射を感じたり、奇妙な映画体験を味わうことができたり、理屈では説明しきれない不思議なおもしろさを感じるというようなことが時にはある。 
 しかし「眠る男」には残念ながらそういったものも感じることができなかった。 
 おそらく人間の不可知な部分に迫ろうとしているのだろうが、ただひたすら観念的でわからない世界が展開されているとしか思えない。 
 はたしてどのくらいの数の観客がこの映画を理解し、おもしろいと感じるのだろうか。 
 そう考えるとはなはだ心許ないばかりだ。 
 

 
 
 
 
 
2/10 スピード2
(97アメリカ)
 
  
 
 「ダイ・ハード」のカメラマン、ヤン・デ・ポンの初監督作品「スピード」はノンストップ・アクションの傑作である。 
 そのおもしろさをいまさらここで云々するのも野暮なほどヒットをし、有名になった映画である。 
 これほど無心に楽しめる映画を観せられるとファンが続編を期待するのは当然のことであろう。 
 そしてその期待に応えて「スピード2」が作られた。 
 だが残念ながらこの2作目は前作に遠く及ばない作品になってしまった。 
 まず第一のつまずきは主役のキアヌ・リーブスが降板してしまったことである。 
 代役として起用されたのがジェイソン・パトリックだが、残念ながら彼にはキアヌ・リーブスがもっているような華がなく、ちょっと荷が重かったようだ。 
 そしてそれをカバーするようにサンドラ・ブロックの比重が大きくなり、その主客転倒が結果的に裏目に出てしまった。 
 また豪華客船乗っ取りの犯行の動機づけが「首を切られたことによる恨み」というのではあまりにも説得力に欠ける。 
 せっかく犯人役に起用したウィレム・デフォーの悪人ぶりが半減してしまった。 
 第一作でのデニス・ホッパーの怪物ぶりに比べてスケールがひとまわり小さくなっており、あまり怖さを感じない。 
 さらに舞台となった豪華客船も十分に生かし切れているとは言い難い。 
 同じように船を使ったアクションではスティーブン・セガールの「沈黙の戦艦」のほうが数段おもしろい。 
 そんなこんなでヤン・デ・ポン監督の切れ味も鈍く、デビュー作の出来がよすぎると次が難しいという見本のような作品になってしまったようである。 
 

 
 
 
 
 
2/17 お熱いのがお好き/昼下がりの情事
(59アメリカ/57アメリカ)
 
     
 

 
 ここのところ観る映画がことごとく外れてばかりで、いささかおもしろくない気分である。 
 こんな時には古い名画を観るのがいちばん手っ取り早い処方箋である。 
 それも理屈抜きに楽しめるものがいい。  
 そこで選んだのがビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」と「昼下がりの情事」の二本である。 
 ビリー・ワイルダーの映画はどれも理屈抜きに楽しめる。  
 シリアスなものにしろ喜劇にしろ映画本来の楽しさを教えてくれる。 
 そこでまず「お熱いのがお好き」であるが、これはもう掛け合い漫才をみるおもしろさがいっぱいつまった映画とでもいおうか、落語的世界とでもいおうか、とにかく無邪気に楽しめる映画である。 
 この映画ではジャック・レモンとトニー・カーティスの女装が売り物のひとつになっているが、これがハリウッドスターが女装に挑戦した最初だったのではないだろうか。 
 この映画以外の女装で思いつくところをあげてみると、「トッツイー」でのダスティン・ホフマン、「ミセス・ファイヤー」のロビン・ウイリアムス、「3人のエンジェル」のパトリック・スエイジとウエズリー・スナイプス、そして「バード・ケイジ」のジーン・ハックマンと思いもかけないような俳優たちが女装に挑戦している。 
 どれも見上げた役者根性ぞろいで、ハリウッドのどんなものにでも果敢に挑戦していく陽性の伝統を感じるが、その先鞭をつけたのがこの「お熱いのがお好き」であったように思う。 
 そしてこのふたりにからませたマリリン・モンローの無邪気な可愛さもこの映画の大きな魅力になっている。 
はすっぱだけどすれてなく、子供のように無邪気な可愛い女を色気たっぷりに演じており、ワイルダーの女優の使い方のうまさをあらためて思わせられる。 
 音楽あり、恋あり、犯罪あり、そして笑いがある。 
 唸ってしまうほどしゃれたセリフがそこここに登場し、よく練られた物語はけっしてあきさせることがない。 
 破綻なく綿密に作り上げていくテクニックはまさに練達の職人芸といえる。 
 そしてそのおもしろさのきわめつけはラストの有名なオチであろう。 
 大金持ちのジョー・E・ブラウンがモーター・ボートを操縦しながら女装したジャック・レモンにプロポーズをするシーン。 
 そのプロポーズをなんとか避けようとジャック・レモンが「私、子供が産めない身体なの」 
 するとブラウン「養子をもらえばいい」 
 進退窮まったジャック・レモンがかつらを取って捨て「俺は男だ」と居直るやジョー・E・ブラウン少しも騒がず「誰にでも欠点はあるもんだ」 
 これにはさすがのジャック・レモンもお手上げである。 
 あきれ果てたジャック・レモンの顔とジョー・E・ブラウンのとぼけた顔の対照のおもしろさ。 
 まさに絶品であり、このオチを見るだけのためにこの映画を観てもいいと思わせるほどのおかしさである。 

 さて続いて「昼下がりの情事」である。 
 「お熱いのがお好き」ではマリリン・モンローの成熟した女の魅力が画面いっぱいにあふれていたが、こちらはオードリー・ヘップバーンの可憐で純情な美少女の魅力がたっぷりと詰まっている。 
 そしてその少女の純情可憐さに思わず泣かされてしまうのだ。 
 この映画を名画座のリバイバル上映で観たのは多分大学一年生のころだったと思う。 
 その時は数あるヘップバーン映画の1本としての印象しかなく、あまり記憶には残っていない。 
 しかし今回はこのおとぎ話のような物語に思いっきり泣かされてしまった。 
 パリを舞台にくりひろげられる中年のプレーボーイと世の中の汚濁を知らない純情な少女の他愛ない恋物語がワイルダーの手に掛かるとこんなにも魅力的な映画になってしまうのだ。 
 中年のプレーボーイに扮するゲーリー・クーパーの渋い男の魅力。 
 そして大人の世界を覗いてみたいという好奇心からゲーリー・クーパーの成熟した男の魅力に捕らえられてしまうまだ幼さを残したようなオードリー・ヘップバーン。 
 そんな対照的なふたりがどうやって恋に落ちていくかというプロセスを実に丹念に腑に落ちるように描いている。 
 世の中の裏も表も知り尽くしたゲーリー・クーパーに見透かされまいとして思いっきり背伸びをするオードリー・ヘップバーンのいじらしい可愛さ。 
 その背伸びをするための芝居の材料がすべて私立探偵である父親の捜査ファイルに書かれたスキャンダルからのいただきというのはなんともしゃれたアイデアである。 
 彼女の一途な気持ちに最初は遊びのつもりだったゲーリー・クーパーが次第に真剣になっていく様子はさもありなんといううまい描き方である。 
 そしてついには彼女に夢中になってしまい、どうしてもその正体を知りたくなった彼が彼女の身元調査を探偵に依頼することになるのだが、それがなんと偶然にも彼女の父親だったというわけである。 
 すぐに娘のことだと気づいた父親はゲーリー・クーパーに真実を話し、彼女の前から姿を消すことが最良の方法だと忠告する。 
 すべてを悟ったゲーリー・クーパーは素直にその忠告に従うことにする。 
 突然、クーパーから別れを言い出されて戸惑うヘップバーン。 
 だが、割り切った大人の遊びだという芝居をしている手前、口では平気を装ったふりをするしかない。 
 心とは裏腹なセリフでクールさを装えば装うほど、本心の悲しさが浮かび上がってくる。 
 悲しみをこらえようと懸命な芝居を続けるヘップバーンのいじらしさ。 
 そんな彼女を痛々しい気持ちで見つめるゲーリー・クーパーの心の葛藤。 
 別れの列車が次第に速度を増していく。 
 それに合わせるように彼の心も激しく揺れ動く。 
 そしてもうこれ以上は列車について来られなくなるという瞬間、ゲーリー・クーパーはとっさにヘップバーンをデッキに抱き上げてしまう。 
 もうどうしようもなく涙が流れてとまらなくなってしまう。 
 そしてワイルダーの人情の機微を描くうまさにあらためて感服してしまうのだ。 
 ワイルダーはこの作品のシナリオでI・A・ダイアモンドと初めてコンビ組んでいる。 
 もともとシナリオライター出身のワイルダーは腕のいいストーリーテラーとして定評があるところだが、ダイアモンドとのコンビによってさらにそれを確かなものにしたといえるだろう。 
 そしてこの作品以後ふたりのコンビによって、「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」などのコメディの傑作を連発していくことになるのだ。 
 本当にいい映画を観たときは、言いようのない幸せな気分に満たされるものである。 
 



 
 
 
 
 
2/18 ゲームの規則/ピクニック
(39フランス)
 
  
 
 休日の今日は一日映画を観て過ごすことにする。 
 録画したままのビデオがけっこうたくさんたまっているのだ。 
 こういう日にまとめて観ないとたまる一方になってしまう。 
 ということでまずはジャン・ルノアールの名作「ゲームの規則」から観ることにした。 
 これは1939年に作られた古いフランス映画である。 
 侯爵の別荘で行われるパーティに集まった客と召使いたちの様々な人間模様を描いたドラマである。 
 その話の中心になるのが侯爵とその妻両方の浮気の顛末である。 
 ブルジョワ夫婦のたわいない不倫騒動と思って観ていると、最後に苦い結末が用意されており、単純な恋愛喜劇というだけの映画ではなかったのだと気づかされることになる。 
 この作品がテレビで放映された時、もう一本ルノワールの作品が同時に放映された。 
 それは「ピクニック」という40分ほどの短編で、こちらもパリ郊外の村にピクニックに出かけた人妻の苦い恋物語がさりげなく描かれており、最後にホロリと人生の苦さを感じさせられるような仕掛けになっている。 
 なにげない日常を積み重ねることで香り高く人生を謳いあげていくルノアールの映画は上質のワインやフランス料理を味わうような贅沢な気分にさせてくれる。 
 たまにはこうした古いヨーロッパの名画をゆったりと観るのもいいものだ。 
 

 
 
 
 
 
 
2/18 太陽と月に背いて
(96アメリカ)
 
  
 
 さて次はそれに多少関連づけて現代のヨーロッパ映画(と思いこんでいたが、実はアメリカ映画)を観ることにした。 
 アニエスカ・ホランド監督の「太陽と月に背いて」である。 
 アルチュール・ランボーとポール・ベルレーヌのホモ・セクシュアルな友情と愛情を描いた物語である。 
 アルチュール・ランボーは代表作「地獄の季節」をはじめとするすべての作品を10代で書いた早熟の天才詩人である。 
 そしてポール・ベルレーヌもパリ詩壇では名を成した詩人である。 
 だが天才詩人アルチュール・ランボーの前ではヴェルレーヌもひとりの凡夫な詩人にすぎなかった。 
 ヴェルレーヌはパリ詩壇に突然現れたランボーの輝くような才能と行動に魅了される。 
 そしてその称賛が次第にホモ・セクシュアルなものへと移行していき、ついには妻のもとを去り、ランボーとの生活へと没入していく。 
 アルチュール・ランボーという強烈な個性をもった人物によって次第に人生を狂わせていくポール・ベルレーヌのねじれた軌跡。 
 その愚かしさや悲しさ、理屈では割り切れない激しい感情の揺れ。 
 天才がもつオーラは地獄の美酒のようなものである。 
 蜘蛛の糸に絡めとられた哀れな虫のようにヴェルレーヌはそこから逃れることができない。 
 そんな身動きできないヴェルレーヌの苦悩は時には愚かしく、だが時には崇高なものとして目に映る。 
 こうした複雑に絡まった人間たちの葛藤をアニエスカ・ホランド監督は女性らしい肌理の細かさと大胆な描写によってなかなか見応えのあるものにしている。 

 天才と凡人、あまりに先鋭すぎて時代に受け入れられない天才とその才能を誰よりも認める平凡な芸術家という構図はミロス・ホアマン監督の「アマデウス」でも描かれた関係である。 
 天才が持つ才能の輝きを世間の人たちは気づかないが、本物の芸術を見分ける審美眼を持った男、サリエリにはそれがはっきりと見える。 
 彼の目に映るモーツアルトはまさに神から授けられた天才をほしいままにした男である。 
 そしてそれを目にすることでいかに自分は並の人間であるかということにあらためて気づかされる。 
 モーツアルトの才能に魅了されればされるほど自分に失望し、さらに激しい嫉妬に苛まれていく。 
 そしてなぜ神は自分のような人格高潔な人間にその才能を授けずにモーツアルトのような礼儀をわきまえない野生児にそれを授けたのだろうかと恨みに思うのである。 
 結局その複雑な思いが高じてモーツアルトを毒殺するに至るのだが、それによってサリエリ自身の人生も自らの手で抹殺するという結果になってしまうのである。 
 ここでも強烈な存在の人間によって人生を狂わせてしまった男の悲劇が描かれる。 
 ヴェルレーヌとランボーの関係にはこのうえにさらにホモ・セクシュアルな愛情とヴェルレーヌの妻との絶え間ない確執が加わることでよりいっそう複雑な様相を見せることになる。 
 そして出口の見えない生活は結局惨めな結末を迎えることになってしまう。 
 愁嘆場の果てに錯乱したヴェルレーヌはランボーを拳銃で撃ってしまうのだ。 
 こうして実りのないふたりの関係は幕を引かれることになる。 
 世間のあらゆる束縛から逃れ、衝動のままに生き、そしてその結果は互いを傷つけ合わねばならない「地獄の季節」は終わったのだ。 
 これ以後ふたりは二度とこのような濃密な時間を生きることはなかった。 
 愚かで過ちに満ちた生活であったが、「地獄の季節」は激しく生命を燃焼させることができた季節でもあった。 
 ヴェルレーヌと別れた後、ランボーは詩を捨てる。 
 そしてアフリカに渡り、貿易商人として生きていく。 
 それはまるで老い先短い晩年を生きる老人のようである。 
 もう十分に生きた、今ある自分は付録の人生を生きているだけなのだと言わんばかりである。 
 そしてその予感が的中したかのような早い死を迎えることになってしまう。 

 ランボーと別れた後のヴェルレーヌも深い喪失感のなかで生きている。 
 そして日々の鬱屈を酒で紛らわせるヴェルレーヌにとっていまやランボーとの激しかった季節を思うことだけが唯一の生きる証なのだ。 
 ヴェルレーヌは想う。 
 「彼のことを毎晩、思い出す。私の輝かしい過ちよ、私たちはいつも幸せだった。今も忘れない」と。 
 そしてそれに応えるようにランボーの詩が流れる。 
 「見つけたよ 
 何を? 
 永遠を 
 太陽がとけ込んだ海を」(『地獄の季節』より「永遠」) 
 



 
 
 
 
 
2/18 夜逃げや本舗
(91日本)
 
 
 
 さて休日の三本目はちょっと軽いものをと思い「夜逃げ屋本舗」を観ることにした。 
 これもかなり前に録画したものを、すぐには観ないでそのままになっていた映画である。 
 題名からもわかるようにこれは借金から逃れるための夜逃げのノウハウから実行までを一手に引き受ける裏稼業の話である。 
 現代日本の金まみれの世相を背景にして、いかにして借金地獄から抜け出すことができるかを様々な方法を駆使して見せていく。 
 犯罪映画で難攻不落の銀行や美術館をどうやって攻略していくのかを描くのと同様のおもしろさだ。 
 奇想天外なアイデアで次々と関門を突破していく快感はそうした種類の映画と共通のものであり、それを夜逃げに置き換えたところが現代的でおもしろい。 
 あまり深く考えないで気楽に観て楽しめる映画である。 
 映画三昧の休日を締めくくる映画の選択としてはなかなか的を得ているのではなかろうか。 
 凝った料理の最後の仕上げはお茶づけでさらっとすませるといったような案配である。 
 

 
 
 
 
 
2/19 奇跡の海
(96デンマーク)
 
  
 
 なかなか味わい深い映画である。 
 スコットランドの海辺の寒村を舞台に、いっぷう変わった男女の愛を描いた映画である。 
 主役の男女を演じるステラン・スカルスゲールドとエミリーワトソンが抜群にいい。 
 とくにエミリー・ワトソンの無垢でエキセントリックな演技がすばらしく、いつまでも心に残る。 
 数多くの舞台やテレビの出演を経て、この作品で映画デビューを果たしたのだが、これが映画初出演とは思えないほど存在感のある演技を見せている。 
 彼女の幼女のようなつぶらな瞳を見ていると、ジュリエッタ・マシーナが「道」で演じたジェルソミーナの無垢な瞳を思い出す。 
 そして、映画の後半、事故で不能になった夫のステラン・スカルスゲードの説得を受けて、娼婦のように町で男を誘う時の彼女の戸惑いの瞳は「カビリアの夜」の男に騙されて途方にくれるジュリエッタ・マシーナの悲しみの瞳を思い出させる。 
 さらにこの二本のフェリーニの映画で描かれたジュリエッタ・マシーニナの無垢な魂の気高さと相似形の気高さがエミリー・ワトソンの場合にも感じられる。 
 それはまるで神に試される巡礼者がじっと受難に耐える姿のようでもある。 
 子供たちから石を投げつけられ、それでも愛に殉じようとするエミリー・ワトソンの姿は痛々しく崇高である。 
 そしてこの異様とも思える男女の愛がスコットランドの荒々しい風景の中で次第に宗教的な輝きを見せ始めると、不思議な感動がわいてくる。 
 

 
 
 
 
 
2/20 マイケル
(96アメリカ)
 
  
 
 ジョン・トラボルタが天使に扮して活躍するというファンタジーである。 
 この天使というのがなんとも人間くさく、そのへんにいる冴えない普通の中年男とまるで変わらない。 
 身だしなみをかまわない不精者で、酒もたばこも女も好きで、けんかと見ればすぐに首をつっこんでしまう。 
 しかし彼は確かに天上から舞い降りた天使であり、それが証拠に彼の背中には立派な羽が生えているのだ。 
 このふざけた天使がどんな活躍をするのだろうかと期待がふくらんだが、残念ながらいまひとつもりあがらないままに終わってしまった。 
 もっとハートウオーミングな話を期待したのだが、ちょっと不発であった。 
 出足が快調であっただけに惜しまれる。 
 工夫しだいでいくらでもおもしろくふくらませることが可能な話だっただけに残念だ。 
 だがトラボルタがいかにも楽しんでこの役をやっており、それがこちらにも伝わってきて一緒になって楽しめたところがもうけものといったところか。 
 

 
 
 
 
 
2/23 スポーン
(98アメリカ)
 
  

 アメリカで大ヒットしたトッド・マクファーレンのコミックを映画化した作品である。 
 原作者のトッド・マクファーレンが自ら製作総指揮をとっている。 
 先日、テレビの「ニュース・センター」にそのトッド・マクファーレンがゲスト出演し、原作のコミックと映画が特集で紹介されたのを見て興味をひかれた。 
 なかなか凝ったSFX映像で、おもしろそうな印象を受けたので、映画館に足を運んでみることにした。 
 だが見応えがあったのはテレビで紹介された映像だけで、後はどうということもない映画でガッカリである。 
 わざわざ映画館に足を運ぶほどの映画ではなかったということだ。 
 今回は完全なハズレである。 
 派手な予告編に誘われて、行ってはみたものの予想に反して失望するという、これは典型的なパターンである。 
 よくあることで、こういったことを敬遠していてはいい映画には出会えない。 
 いかに裏切られようとも、懲りずに映画を見続けていないといいものと巡り会うことはできないのだ。と、こんな自戒を持ち出して強がってみせるしかないだろう。 
   



 
 
 
 
 
2/26 トレインスポッティング
(96イギリス)
 
 

 アメリカやヨーロッパのドロップアウトした青春とドラッグは切り離すことのできない密接な関係にある。 
 刹那的に生きる青春とドラッグとは常にワンセットになっている。 
 そうした世界を描いた映画は数多く、よく知られたところでは「イージー・ライダー」「ドラッグストア・カーボーイ」「シド・アンド・ナンシー」などが思い浮かぶ。 
 またとくにドラッグを前面に押し出した作品でなくとも、ごくありふれた日常風景として頻繁に登場してくる。 
 それほどアメリカやヨーロッパではドラッグは日常的に蔓延しているということであり、けっしてめずらしいことではないということだ。 
 こうした映画を観る度に思うのは、ヨーロッパやアメリカの若者たち(もちろん若者に限らず大人も含めてのことだが)は何と簡単にドラッグに手を出すのかということだ。 
 日本でも覚醒剤使用の広がりや低年齢化が問題になってはいるが、こうした欧米の現状と比べればまだまだとるにたらない規模である。 
 日本社会にはドラッグに対する根強い抵抗感と倫理観がまだ厳然と存在しているのである。 
 国民性の違いと言ってしまってはそれまでだが、こうした事実を思うとき、欧米社会に根付いた精神の荒廃をあらためて考えてしまう。 
 それはわれわれ日本人の想像をはるかに越えたものだ。 
 イギリス映画「トレイン・スポッティング」に見られる青春からもイギリス社会の疲弊と荒廃の深さを強く感じさせられる。 
 そしてそうした社会の呪縛から逃れようとするが、なかなか逃れ切れない若者の日常を時にはコミカルに、また時には残酷に描くことで、イギリスの若者が生きるもっとも新しい今を見せてくれる。 
 ジャンキーである主人公の幻覚がくりかえし描かれるが、そのなかでも印象的なのは便器に顔を突っ込んだ主人公が排水溝のなかへ吸い込まれてゆくと、そこは海のように広い水中になっており、その水の中を主人公がまるで空を飛ぶように泳いでいくというシーンである。 
 水の底から仰いで撮った画面には強い太陽光線が差し込んでおり、そのなかをシルエットになった主人公が気持ちよさそうに泳いでいく。 
 美しく独創的なショットである。 
 そしてここに主人公の願望が見事に表現されている。 
 重苦しくなるテーマを軽いフットワークで描くのはダニー・ボイル流のスタイルのようだ。 
 どうしようもない青春を否定的に描くのではなく、社会を告発しようとするのでもなく、また特別なものとして描くのでもなく、きわめて 自然であたりまえのものとしてクールに描いている。 
 ここが現代的で新しい。 
 そしてそこにダニー・ボイルの暖かな眼差しが感じられるのである。 

 主役を演じるユアン・マクレガーがなかなかいい。 
 この映画を印象深いものにしているのは彼の魅力によるところが大きい。 
 彼はダニー・ボイルの監督デビュー作である「シャロウ・グレイブ」にひき続きこの「トレイン・スポッティング」に主演し、さらに3作目の「普通じゃない」にも主演をしている。 
 また話題のイギリス映画「ブラス」にも主演するといった具合で、いまもっとも注目すべきイギリスの若手俳優である。 
 けっして二枚目ではないが、強く惹きつける独特の個性をもっている。 
 今後の活躍を見守りたい俳優のひとりである。 
 



 
 
 
 
 
2/27 ミラーズ・クロッシング
(90アメリカ)
 
  
 
 脚本がイーサン・コーエンとジョエル・コーエン、製作イーサン・コーエン、監督ジョエル・コーエンというコーエン兄弟の作品である。 
 兄弟で映画を作ることで有名なのは彼らの他にもイタリアのタビアーニ兄弟がいる。 
 彼らも兄弟でシナリオを書き、そして兄弟で映画を監督する。 
 どちらの兄弟が作る映画もなかなかの異色作揃いであるが、イーサン兄弟の作る作品は「赤ちゃん泥棒」「バートン・フィンク」「ファーゴ」のように犯罪がからんだ物語をブラックな笑いやシュールな発想で味つけをした、どちらかというと洗練されたものが多いのに対して、タビアーニ兄弟の映画はイタリアの大地に根ざした神話的な世界を真っ正面から描いた重厚で土臭い作品が多い。 
 今回観た「ミラーズ・クロッシング」はイーサン兄弟の特徴であるブラックな笑いやシュールな発想を極力抑えて撮った本格的なギャング映画である。 
 1920年代後半のアメリカ東部の都市での暗黒街の抗争を描いている。 
 アイルランド系とイタリア系の二大組織が存在する街でアイルランド系の組織に属するギャングが主人公である。 
 この男をギャング映画でおなじみのガブリエル・バーンが演じている。 
 そしてその男の兄弟分で、アイルランド系組織のボスをイギリス俳優のアルバート・フィニーが貫禄豊かに演じている。 
 アルバート・フィニーといえば1960年代の「怒れる若者たち」としてのイメージが強い。 
 「土曜の夜と日曜の朝」や「トム・ジョーンズの華麗な冒険」で若者の反抗や常識に縛られない行動を自由奔放に演じていたのが忘れられない。 
 その後目立った活躍もなかったが、最近になってこうした渋い役柄で登場することが多くなったようだ。 
 最近観た映画「明日に向かって」でイギリスの名門校を退官することになった厳格な高校教師を演じていたのが印象に残っている。 
 伝統と格式を重んじ、誇り高く生きる典型的なジョンブルの孤独と悲しみを重厚な演技で表現しており、一朝一夕には身に付かない品格と貫禄を感じさせられた。 
 「ミラーズ・クロッシング」の役柄もアイリッシュの意地と誇りを身につけた個性の強い男を好演しており、一方の主役、ガブリエル・バーンの個性の強さとちょうどいいバランスをとっている。 
 固い友情で結ばれたふたりだったが、アルバート・フィニーの情婦にガブリエル・バーンが手をつけたことから対立し、そこにイタリア系組織の利害が絡んできて血なまぐさい抗争に火がつくことになる。 
 やはりここでも金と女が権力闘争のもとになっている。 
 そして陰謀、殺戮、裏切りといった裏社会の生々しい現実が迫力ある映像で重々しく描かれていくことになる。 
 イーサン兄弟の幅広い才能を見せられた一編であった。 
 


 
 
 
 
 
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