映画日誌
 
1998年1月
 
 
 
 
1/1 タイタニック
(97アメリカ)
 
 
 
 圧倒的な迫力であった。 
 まるで歴史を追体験したような3時間であった。 
 映画「タイタニック」である。 

 毎年、年末年始はテレビを観て明け暮れるのが恒例なのだが、今年は初詣の後、家族揃って映画館へと足を運んだ。 
 元日を映画館で過ごすなどということは実に数十年ぶりのことである。 
 「映画しかなかった」子供の頃は、正月に映画館で映画を観ることは最大の娯楽であり、どの家庭でも家族うち揃って映画館へ押し寄せたものである。 
 そして、満員の人でごった返す人ごみのなかで、わずかな隙間から盗み見るようにしてスクリーンを見つめたものである。 
 そんな記憶ももうすでに遠い過去のものになってしまい、いつしかそういう習慣も忘れ去っていたが、この映画「タイタニック」によって再び蘇ったわけである。 
 さすがに立ち見で観るというようなことはなかったが、上映前は長い列を作って入場を待つという経験を久しぶりで味わい、上映後、廊下に出てみると、そこにはさらにそれを上回る人々の長蛇の列が続いていたのである。 
 映画館でこんな光景を目にするのは何年ぶりのことだろう。 
 映画産業の衰退が叫ばれて久しく、こんな光景は二度と目にすることはないだろうと思っていただけに驚きである。 
 そんなわけで今年は元日から上気した気分を味わうことになったのである。 
 そして安く、いい映画であれば、客がつめかけるという可能性がまだまだあるのだということを改めて実感した次第である。 

 さて、「タイタニック」であるが、これは文句なく面白く、映画がもつ見せ物としての醍醐味をたっぷりと味わうことができた。 
 もし本物のタイタニックの沈没を撮影することができたとしても果たしてこれほど迫力ある映像を撮ることができただろうかと思わせるほどである。 
 まさに現在のハリウッドにおける撮影技術の粋を集めたものといえよう。 
 タイタニックの本物の設計図を手に入れ、それをもとにほぼ実物大の船体を作り上げ、また実際に設置されていた家具、装飾品のサンプルを集め、ほぼ正確に再現するというハリウッドならではのスケールの大きさと完全主義によって作られている。 
 さらにCG(コンピューターグラフィックス)によってほとんど不可能と思えるような海難事故の映像や船体の映像を作り出している。 
 これらの技術はジェームス・キャメロン監督やそのスタッフたちが「ターミネーター」にはじまり「ターミネーター2」「アビス」「トゥルー・ライズ」へと至る作品で様々な試行錯誤をくりかえしながら獲得してきたものなのであろう。 
 それの集大成としての映画がこの「タイタニック」というわけである。 
 だがこの映画がスペクタクルな視覚効果の面で優れているというだけではなく、その骨格をなす物語も人間ドラマとして優れており、いつもながらのジェームス・キャメロンの語り口のうまさが遺憾なく発揮されている。 
 そして、若い主人公ふたりのラブストーリーとタイタニックの沈没というふたつのドラマが見事にからみ合って超一級の娯楽大作に仕上がっている。 
 これだけ圧倒的な感動を味わえる作品とはそうそういつでも出会えるものではない。 
 私の映画体験のなかでは「ベンハー」で味わって以来のスケールの大きい感動であった。 
 まさに本物の映画であり、これこそが映画ならではの迫力と味わいである。 
 素直に拍手を贈りたい。 
 これで今年のベストワンは決まりである。 
 



 
 
 
 
 
 
1/2 変瞼(へんめん)・この櫂に手をそえて
(中国)
 
  
 
 「変瞼(へんめん)」は中国の大道芸人の物語である。 
 時代は日中戦争当時であろうか。 
 紙でできた京劇風の仮面を一瞬のうちに被り変える「変瞼(へんめん)」という中国の伝統的な芸がある。 
 この芸は現在の中国でも行われている芸で、その目にも留まらない早業は深く秘密に伏されており、門外不出のトリックである。 
 その早業を使う老いた大道芸人が跡継ぎを作ろうと人買いから子供を買うが、それが実は男の子を装った女の子であった。 
 しかし芸の継承は男子のみに許されたもので彼はその子を捨てようとする。 
 ところがこれまでに何度も養い親から捨てられたことのある娘は捨てられまいと必死になって食い下がる。 
 結局その熱意に負けて仕方なく娘の面倒を見ることになるのだが、その関係は親子から一転して主人と下女という立場になってしまう。 
 働かざる者食うべからずといった考えで、相手が子供といえども容赦がない。 
 また娘もそれが当然のように骨惜しみせずよく働く。 
 こうしてふたりの旅が続いていく。 
 この設定はまるでフェリーニの「道」のようである。 
 だが、「変瞼(へんめん)」の主人公は「道」のザンパーノほど非道ではなく、酒が好きなところは似ているが、どちらかといえば好人物といえる人間で(この主人公を演じているのがNHKのドラマ「大地の子」で中国人の養父を演じた朱旭である)、この娘の健気さに次第にほだされていく。 
 そしてある事件で老芸人が警察に捕らえられたことから、娘の身をなげうっての救出劇が展開されることになるのである。 
 そんな娘の一途な健気さには素直に泣かされる。 
 彼女の我が身を省みない行動を見ていると「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という格言がしきりに浮かんでくる。 
 そして彼女が老芸人にとっての天使だったのではとも思えてくるのである。 
 飽きずに見せるいい映画である。 
 そして古い中国の伝承物語の香りを感じさせる。 
中国映画を観ていると不思議な懐かしさを感じることがよくあるが、この映画もそんな気分にさせられる一編であった。 
 そんなわけでこの映画は「芙蓉鎮」「紅いコーリャン」「黄色い大地」「さらば、わが愛/覇王別姫」等と並んで私にとって記憶に残る中国映画の1本となった。  
 

 
 
 
 
 
1/4 夜空に星があるように/カスパーハウザーの謎
  (イギリス/75ドイツ)
 
  
 
 「夜空に星があるように」(ケン・ローチ監督)と「カスパー・ハウザーの謎」(ベルナー・ヘルツォーク監督)の2本のビデオを借りたが、どちらも退屈で、心ならずも途中で居眠りしてしまった。 
 ケン・ローチはイギリスの著名な監督であるが、日本では上映された作品が少なく、一般にはあまり知られていない。 
  だからこの「夜空に星があるように」は日本で観られる数少ない彼の映画であり、また代表作でもある。 
 ようやく巡り会った1本ということでかなり期待したのだが、結局途中で居眠りということになってしまった。 
 残念だが波長が合わなかったということか。 
 またもう1本の「カスパー・ハウザーの謎」も同様である。 
 こちらも「空に星があるように」同様かなりマイナーな作品である。 
 ニュー・ジャーマン・シネマの旗手ベルナー・ヘルツォーク監督が1975年に撮った作品で、カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞している。 
 彼の作品では南米アマゾンを舞台にした「アギーレ・神の怒り」や「フィッツカラルド」がよく知られており、その壮大な構想と難解さは大きく評価の分かれるところである。 
 非常に個性の強い監督で、登場人物も同様に個性が強く、何かに強く執着し、人知を越えた地点まで追求し続ける狂熱的な人間である。 
 例えば「フィッツカラルド」では、アマゾンの奥地にオペラハウスを建設しようという夢にとりつかれた男の壮大な事業が描かれるが、なかでもアマゾンを上る巨大な船を大勢のインディオたちを使って山越えさせるシークエンスには度肝を抜かれる。 
 陸地に揚げるだけでも大変な船をジャングルを切り開いて山越えさせるなどとは、まさにわれわれの常識をはるかに越えた考えである。 
 そしてそれを実行に移す行動力と実現させてしまう執着力にはただただ驚く他ない。 
 底知れぬ狂気を感じてしまう。 
 おそらくこういった企画はずれの人間のなかに神に近い何かをヘルツォーク監督は感じていたのではなかろうか。 
そして、またこうした人間の世間に治まりきらない悲しみや孤独に強い愛着を感じていたにちがいないのである。 
 「ガスパー・ハウザーの謎」もそういった並びに位置する映画である。 
 19世紀にドイツで実際に起きた事件を題材にしている。 
 この事件については以前に渋澤龍彦がどこかに書いていたのを読んだことがあり、強く興味をひかれたおぼえがある。 
 その事件は、1828年のバイエルン王国で起きた。 
 ある朝その街に不思議な若者が突然出現した。 
 年齢は10代後半と思われるが言葉を知らず身元は全く不明。生まれてこの方人間と接触した形跡がなく、また歩くことさえできなかった。 
 彼はガスパー・ハウザーと名付けられ、教育を受け次第に言葉をおぼえていくが、結局は社会に同化することができず、彼の存在を容認できない者の手によって暗殺されてしまうのである。 
 謎に満ちた不思議な事件であり、結局何もわからぬままに終わってしまうのである。 
 ヨーロッパ文明の深い闇を感じさせられる事件である。 
 この謎に満ちた異常児ガスパー・ハウザーにヘルツォークが強く惹かれたのは当然のことであろう。 
 だがヘルツォークはこの映画化では明らかに消化不良を起こしている。 
 なぜかヘルツォークの混乱ばかりが目についてしまうのだ。 
 作家主義の映画が陥りやすい独善という陥穽にヘルツォークも陥ったのか。 
 ここには「フィッツカラルド」にみられるような高揚感がない。 
 物語の世界へひきこませる力技がない。 
 そして私は退屈で眠ってしまったのである。 
 せっかく興味を惹かれる題材であったのに残念である。 
 

 
 
 
 
 
1/7 男たちのかいた絵
(95日本)
 
  
 
 異才、神代辰巳監督が亡くなったのは昨年のことだが、遺作となった「棒の悲しみ」に続いてやくざ者を描いた作品を構想していた。 
 それが「男たちのかいた絵」である。 
 だがその映画化を果たすことなく亡くなってしまった。 
 そしてそのシナリオの共同執筆者である伊藤秀裕が彼の遺志を継いで映画化した。 
  
 これは2重人格者の話である。 
 ひとりは心優しく、気の弱いサラリーマンで、もうひとりはまったく逆に凶暴なやくざ。 
 気の弱いほうが松男、やくざのほうが杉男と名前まで違う。 
 このふたりの人格が何の前触れもなく突然入れ替わってしまう。 
 そんな混乱や周りの人間のとまどいがおもしろく描かれる。 
そしてふたりの反発と確執が次第に強まっていき、最後は反目する組のやくざに撃たれて死んでしまう。 
 この引き裂かれたふたつの人格を豊川悦史が絶妙に演じている。 
 凶暴な松男が次はなにをしでかすのかという不安に常に怯やかされている小心な杉男。 
 そんな杉男の心配をよそに感情のおもむくまま傍若無人にふるまうやくざの松男。 
 そのどちらにも豊川悦史のキャラクターが見事にはまっているのである。 
 彼の血管が透けて見えそうな薄くて白い皮膚が松男の冷酷さによく似合っており、ぼそぼそと高音でつぶやく自信なげな話し方が杉男の優しさに似合っている。 
 剛と柔、強と弱、動と静、両極端を行き来し、深い孤独の中に沈んでいく哀れな男をめりはりのある陰影で表現していく。 
 「トヨエツ人気」の黄色い嬌声に掻き消されがちだが、彼の役者としての演技と個性は並のものではない。 

 この映画は筒井康隆の小説が原作だが、彼は役者としてもこの映画に出演し、豊川悦史が属する組の大親分として貫禄ある演技を見せている。 
 作家のお遊びというレベルを越えた存在感がある。 
 さすが一時期役者を志望していたというだけのことはある。 
 まためずらしく桃井かおりがこの映画のプロデューサーに名前を連ねている。 
 彼女は神代監督の映画には「青春の蹉跌」「アフリカの光」「櫛の火」「噛む女」「棒の悲しみ」の5本に出演している。 
 この数が多いか少ないかはわからないが、おそらくこれらの作品を通して監督と女優という立場を越えた人間的な結びつきがあったのであろうと想像する。 
 そんな神代辰巳への追悼の想いからこの映画のプロデューサーを買って出たのであろう。 
 もし神代監督がこの映画の仕上がりぶりを観ることができたなら、じゅうぶんに満足したのではないだろうか。 
 



 
 
 
 
 
 
1/10 さらば愛しき人よ
(75アメリカ)
 
  
 
 BSで「さらば愛しき人よ」を観る。 
 ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの代表作を1975年に映画化した作品。 
 そしてかの有名な私立探偵フィリップ・マーローをロバート・ミッチェムが演じている。  
 フィリップ・マーローといえば「三つ数えろ」のハンフリー・ボガードがあまりにも有名で、この時のマーローの印象が強烈で、誰もがこの役を敬遠したにちがいないと思うのだが、好漢ロバート・ミッチェムが果断にこの役に挑んでいる。 
 そしてボガードのマーローとはまたひと味違ったマーロー像を作り上げている。 
 トレード・マークの「スリーピング・アイ」と堂々たる押し出しで、ものに動じないタフなマーローを余裕綽々で演じている。 
 実際、この時の役柄が好評だったようで1978年には続編として「大いなる眠り」(「三つ数えろ」の原作でもある)が作られ、もう一度マーロー役に挑んでいる。 
 ロバート・ミッチェムといえばやはり「眼下の敵」の駆逐艦の艦長役がいちばん印象に残っている。 
 状況を冷静沈着に判断し、常に数歩先を読んで部下を将棋の駒のように自在に動かしていく凛々しい青年艦長がよく似合っていた。 
 そしてフェアープレーの精神を重んじた正々堂々たる軍人、理想のアメリカ人の典型が描かれていた。 
 フィリップ・マーローはこれほど立派な人間ではなく、むしろもっと人間くさいヒーローで、しかし、いかにもアメリカ的なタフさという点ではどちらも似たところのあるヒーローといえよう。 

 ついでに書き添えておくと、この映画に「ロッキー」で売れる前のシルベスタ・スタローンがケチなチンピラ役で出演している。 
 こんな発見があると無性に楽しくなってくる。 
 いまでは大スターの彼もこうやってがんばっていた時代があったのだと思うとなんともほほえましい。 
 



 
 
 
 
 
1/17 弘前大学映画研究会」上映会
篠原哲雄作品集
「RUNNING HIGH」/「YOUNG&FINE」
「恋、した。『オールドタウンで恋をして。』」
「山崎まさよしビデオクリップ『One more time, One more chance』」
「草の上の仕事」
 
 草の上の仕事 
 
 弘大映画研究会の上映会が「七色爛灯(なないろらんぷ)」と銘うってスタジ・オデネガで開かれる。 
 毎年開かれる恒例の行事で、昨年は観られなかったが、一昨年は古厩智之の作品上映ということで観に出かけた。 
 今年は篠原哲雄の作品上映である。 
 彼の映画は「月とキャベツ」を観て好印象を持っていたので観に行くことにした。 
 上映作品を上映順に並べてみると「RUNNING HIGH」 「YOUNG & FINE」 「恋、した『オールドタウンで恋をして。』」 「山崎まさよしビデオクリップ『One more time, One more chance』」そして篠原哲雄監督を囲んでのトークがあり、最後が「草の上の仕事」というプログラムである。 
 「RUNNING HIGH」は89年に撮られた26分の8ミリ作品で、ぴあフィルムフェスティバルで特別賞を受賞している。 
 これは全編ひたすら自転車で走り続ける作品で、アクション映画ともラブ・ロマンスともいえる内容の映画である。 
これが篠原監督の処女作であり、助監督の仕事のかたわら撮った作品だそうである。 
 ほぼサイレントに近く、自転車の走りだけを多彩なカットとカメラアングルで追うといった映画の原点のような作品である。 
 シンプルだがけっこう飽きさせないで見せる映画である。 
 「YOUNG & FINE」は今の高校生の日常を丹念に描いた作品。 
 男女の高校生のカップルと新しく赴任してきた若い女教師の微妙なバランスが笑いとエロスとちょっとほろ苦い感傷のなかで描かれる。 
 「恋、した『オールドタウンで恋をして。』」は最新のテレビドラマである。 
 「山崎まさよしビデオクリップ『One more time, One more chance』」は「月とキャベツ」に主演した歌手、山崎まさよしのミュージック・ビデオである。  
 そして最後に上映されたのが「草の上の仕事」である。 
 これは1993年神戸インディペンデント映画祭でグランプリを受賞した作品である。 いわば篠原哲雄監督の出世作ともいえる作品で、この作品によって広く世間に認知されるようになった。 
 これは実にシンプルな映画である。 
 ふたりの男が草原の草を草刈り機でただひたすらに刈り続けるというだけの映画である。 
 ただそれだけの映画がなぜか心地よく、不思議と強い印象を残す。 
 人気のない高原に若いふたりの男がトラックで現れ、黙々と草を刈り始める。 
 草刈り機のうなる音だけが流れる。 
 ひとりの男は手慣れた手つきで草刈り機を操るが、もうひとりの男の手つきは危なっかしい。 
 どうやら彼はアルバイトで、今日初めて草刈り機を手にしたようである。(このアルバイトの男を「爆笑問題」の太田光が好演) 
 その慣れない手つきをもうひとりの男がしきりに注意する。 
 操る要領を教えるが、その声は手厳しい。 
 アルバイトの男はそんな態度に不満そうである。 
 こんなふたりの関係が反発したり近づいたりしながら作業が続いていく。 
 そして夕闇とともに一日の仕事が何事もなく終了する。 
 この映画を見ていると昔やった単純労働のアルバイトをふと思い出してしまった。 
 その時にもこれと似たような状況があったことを思いだしたのだ。 
 単純な労働のなかにも思いの外に起伏があり、無為に過ぎていくかのような時間のなかにもけっこうなドラマが展開しているものなのである。 
 そんなことを考えながら観ているといつのまにか自分も彼らと一緒に草を刈っているような気分になってくる。 
 単純な作業の繰り返しが決して辛いものではなく、むしろその単調なリズムに身をゆだねることで次第に心地よい気分に変わっていく。 
 そして仕事の終了(すなわち映画の終了)とともに労働の後の心地よさ、ひと汗かいた後の爽快感に満たされているのである。 
 ということで一仕事終えた気分で会場を後にしたのである。 

 
 
 
関連サイト  CINEMA LAND  過去の特集のなか「七色爛灯」に関連記事がある。 
  



 
 
 
 
 
 
1/26 ピースメーカー
(98アメリカ)
 
 
 
 
 「フロム・ダスク・ティル・ドーン」で吸血鬼たちを相手に破天荒な活躍をしたジョージ・クルーニーがステイーブン・スピルバーグが設立したドリーム・ワークス第1回作品「ピースメーカー」で主役を演じている。 
 相手役にはアクション映画にはめずらしいニコール・キッドマンである。 
 監督はミミ・レダー。女性監督である。人気テレビ映画「ER」の演出で注目された監督である。 
 ジョージ・クルーニーも同じく「ER」のドクター役で人気をつかんだ役者ということでともに「ER」のメンバーがチームを組んだわけである。そのメンバーが今回はノンストップ・アクションに挑んでいる。 
  
ロシアの貨物列車が何者かの手によって襲われて、積んでいた10基の核弾頭が盗まれる。 
 アメリカ政府はただちに犯人追跡のチームを編成してこの危機に当たらせる。 
 チームのリーダーに抜擢されたのがニコーツ・キッドマン演じる女性科学者である。 
 そして実働部隊の責任者として指名されたのがジョージ・クルーニー演じる米軍特殊部隊の将校というわけである。 
 犯人側とそれを追うアメリカ側の虚々実々の駆け引きがくりひろげられて次第にサスペンスを高めていく展開は定石通りだ。 
 だがことさら目を引く新しいアイデアがあるわけではなく、その点ではいまひとつ物足りなさを感じる。 
 例えば核弾頭を積んだトラックで犯人たちが逃走するのを偵察衛星を使って追跡するくだりなどは「今、そこにある危機」の二番煎じである。 
 また盗んだ核弾頭で核爆発を起こし、それを種に政府を脅迫する手口は「ブロークン・アロー」でもお目にかかっている。 
 その他にもおおかたの設定がどこかで一度見たことがあるようなものばかりで、目新しい情報や設定のおもしろさで驚かされるということはないが、話の展開はテンポがよく、サスペンスの盛り上げ方もそつがなく、この種のドラマとしてはよくできている。 
 パワフルでハードな語り口は女性監督らしからぬ巧みさで、彼女の起用はある程度成功したといえるだろう。 
 しかしドリーム・ワークス第1回作品の監督への抜擢という重責をなんとか無難にやりおおせたという程度で、もうひとつ決定打がなくインパクトが足りない。 
 よくできた映画だけに残念な気がする。 
 スピルバーグに見こまれた才能を発揮するのはあるいはこれからなのかもしれない。 
 そうした期待感を抱かせるものは確かにある。 
 アクションを得意とする数少ない女性監督として今後の作品に注目したい。 
  
 ジョージ・クルーニーとニコール・キッドマンは適役といっていい。 
 とくにニコール・キッドマンはアクション映画には不向きではないかという予想を裏切って沈着冷静な女性科学者役を好演している。 
 これまでになかった彼女の新しい一面である。 
 

 
 
 
 
 
1/30 セブンティーン
(アメリカ)
 
  
 
 レンタル・ビデオで「セブンティーン」を借りる。 
 ブラッド・レンフロ主演の青春グラフィティー、成長物語である。 
 「依頼人」の子役オーディションで選ばれたレンフロがこの映画出演時は14歳で、ちょっと背伸びをして高校生の役を演じている。 
 そしてその幼さが残る初々しさがこの役によく似合っている。 
 舞台は1960年代のアメリカの地方都市。 
 東欧から父とふたりで移民してきたばかりの高校生がそこに住んでいる。 
 その孤独で貧しい高校生が地元FM局のDJに憧れる。 
 DJを演じるのがケビン・ベーコン。 
 60年代ファッションでおしゃれに決めたケビン・ベーコンは地元の高校生たちのアイドルである。 
 そのDJに気に入られたレンフロが彼の使い走りをやりながら次第に成長していく姿が60年代の音楽と風俗のなかで描かれていく。 
ケビン・ベーコンがいかにも遊び人のヤンキーといった男を気分よさそうに演じている。 
 気障なスマートさがなんともカッコいい。 
 しかし彼は落ちぶれ果てた末にこの地方都市に流れ着いてきた男で、かってはメジャーな放送界で人気を獲得したこともあったという設定になっている。  
 彼の外見のカッコ良さもそんな前歴をひきずった精一杯の虚勢でもあるのだ。 
 そんな彼を眺めていると、この物語がかって彼が「フットルース」で演じたダンス好きの高校生の後日談のように思われてくる。 
 その後放送界に身を置いて、いちどは華やかに成功したものの今は落ちぶれてしまい、未だに過去の栄光を忘れられないでいるのだといったふうに考えてみるのもおもしろい。 
 そうやって観てみるとこの役がもっとふくらんで見えてくる。 
 だがそんな胡散臭い男でも高校生たちから見れば普通の大人にはない強い魅力をもっているのだ。 
 常識的な大人が見れば眉をしかめたくなるような男にこそ少年たちは夢中になるものなのだ。 
 そしてそんな憧れのなかから多くのものを学び取り、大人になっていく。 
 よくある青春映画のパターンを踏んだ物語だが、手を抜かずにきっちりと作っており好感の持てる一編である。 

 レンフロの父親役をめずらしいことにドイツの名優マクシミリアン・シェルが演じている。 
 顔一面の髭面で最初はだれだかわからなかったが、タイトルをみて気がついた。 
 懐かしい俳優である。 
 祖国では高名な数学者だが、今は定職もなく無為に日々を過ごす不遇な父親を好演しており、印象に残っている。 
 やはり腐っても(?)鯛である。 
 



 
 
 
 
 
1/30 戦争の犬たち
(80アメリカ)
 
 
 
 BSで「戦争の犬たち」を観る。 
 1980年製作のアメリカ映画。 
 原作が「ジャッカルの日」「オデッサ・ファイル」のフレデリック・フォーサイスである。 
監督がジョン・アービン。製作総指揮にノーマン・ジェイソンの名前がある。  
 そして主演がクリストファー・ウォーケンとくればいやでも期待させられる。 
 その予想を裏切ることなくおもしろい、よくできた戦争アクションであった。 
 パリ、ロンドン、西アフリカを舞台にくりひろげられる物語はフィルム・ノアールと戦争映画を合わせたようなつくりである。 
 物語のあらすじはこうだ。 
 西アフリカにある架空の独裁国ザンガーロに英国の大資本が投資をしようと考えている。 
 しかし現在の独裁政権には不安を感じており、その調査を戦争プロフェッショナルのクリストファー・ウォーケンに依頼する。 
 K・ウォーケンは中央アメリカの紛争から帰ったばかりで、この依頼にはあまり気乗りがしない。 
 しかし予想以上の高額な報酬から、その依頼を引き受ける。 
 そして危険のなか、身元を偽ってザンガーロに乗り込み、命がけの調査をする。 
 調査の結果は依頼人の予想を裏切ったものであった。 
 大資本側は早期のクーデターの可能性を期待していたのだが、強権を発動している現在の政権は思った以上に強固で、その可能性は少ない。 
 そこで依頼人はあらためてK・ウォーケンに傭兵を組織しての政府転覆を依頼するのである。 
 そしてその後に自分たちが選んだ大統領による傀儡政権をつくり、その国の莫大な資源を独り占めしようと考えている。 
 K・ウォーケンは仲間の戦争プロフェッショナルたちを集め、密かにゲリラ戦の準備を始める。 
こういった話がK・ウォーケンの行動を中心に緊迫した気配のなかで語られていく。  
 フレデリック・フォーサイスの書く物語はいつも日常生活の裏で深く静かに展開していく。 
この映画でもK・ウォーケンが鷹のように鋭い目で秘かに情報を集めたり計画を遂行していく様子が抑制の利いた画面で描かれていく。 
 そんなK・ウォーケンが放射する謎めいた雰囲気や孤独な影がなんともカッコいい。 
 さらに戦場での姿や独裁政権の兵士に拷問をうける姿に「ディア・ハンター」でのK・ウォーケンが一瞬ダブったりするが、あの時の恐怖に怯える弱々しい目はなく、ここでの彼は筋金入りのプロフェッショナルである。 
 そんな彼のプロとしての自負と生き方がちょっとしたエピソードによって語られる。 
 K・ウォーケンがスーパーで買い物をして出てくると、黒人の少年が待ちかまえていて彼に「お金をちょうだい」と要求する。 
 K・ウォーケンは少年に「どうして?」と聞き返すと、次の場面ではその少年がK・ウォーケンのあとを買い物袋をかかえてとぼとぼと歩いている。 
 アパートの入り口まで来ると少年から袋を受け取り、ポケットから小銭を取り出して少年に渡す。 
 そして彼は少年にこう言う。「いいか、物乞いのまねはするな」 
 身体を張って生きる男の誇りと自信が浮かび上がってくる挿話である。 

 これは拾いものの1本であった。 
 彼の出演作では「デッド・ゾーン」や「ディア・ハンター」に次いでいい作品である。 
 



 
 
 
 
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