映画日誌
 
1998年3月
 
 
 
3/1 フェイス/オフ
(98アメリカ)
 
  
 
 ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタが主演の映画とくれば、彼らの大ファンとしてはぜひとも観に行かねばならない。  
 ましてや監督がアクションに独特のスタイルをもったジョン・ウーとあれば、何をかいわんやである。  
 トラボルタは「ブロークン・アロー」に続いてのジョン・ウー監督作品への出演になる。  
 「ブロークン・アロー」では初の悪役(「パルプ・フィクション」でもギャングの殺し屋を演じているが、この映画では出てくる人間がみなワルばかりなので一般的な意味での悪役とは違っていると考えるので)に挑戦して見事な悪を演じていたが、今回の「フェイス・オフ」では善と悪の両面を演じることになった。  
 そして対するニコラス・ケイジも同様に善と悪の二面を演じており、ふたりがそれぞれ正反対のキャラクターを演じ分けるところがこの映画の大きな見所のひとつになっている。  
 まず始まりはニコラス・ケイジがテロリストの親玉で、どんな悪辣なことも顔色も変えずにやってしまうという根っからの悪をスタイリッシュに演じている。  
 対してトラボルタはFBI捜査官でニコラス・ケイジによって幼い息子が殺されたという苦い過去をもっている。  
 この対立するふたりを軸に追いつ追われつの激しいアクションが繰り広げられるのだが、これに奇想天外なアイデアが盛り込まれることになる。  
 宿願の逮捕を果たしたトラボルタが意識不明で眠るニコラス・ケイジの顔を捜査の必要上から極秘に自分の顔に移植をする。  
 そして彼に成りすまして刑務所に潜入し秘密を握る仲間と接触して秘かな捜査を開始する。  
 だが、意識を取り戻したニコラス・ケイジが逆にトラボルタの顔を移植して彼に成りすまして反撃を開始する。  
 そしてこの秘密捜査の事実を知るスタッフ全員を殺したことから俄然ニコラス・ケイジ(実はジョン・トラボルタ扮する本当のFBI捜査官)が窮地に陥ることになる。  
 この善悪入れ替わった男ふたりの駆け引きがジョン・ウーお得意の激しいアクションによって繰り広げられていく。  
 休む間もないスピーディーな展開はジョン・ウー映画の定石通りで、次々と現れる激しい暴力描写の連続には今回も理屈抜きに圧倒されてしまう。  
 まさにジョン・ウー監督の独壇場である。  
 そして心拍数が上がったままで一気にラストへと雪崩れ込んでいき、爽やかなカタルシスが訪れることになる。  
 これはまさにジョン・ウー監督のスタイルが頂点を極めた作品といっていい。  
 香港時代の代表作が「男たちの挽歌」であったように「フェイス・オフ」はハリウッドにおける代表作である。  
 ハリウッドに拠点を移し、じっくりと腰を据えて作り続けてきた6年間のキャリアがようやくにして結実したということだ。  
 さて次はどういう作品作り出してくるのか、大いに期待を抱かせる。  
  

 
 
 
 
 
 
3/10 冬の旅
(85フランス)
 
 
 アニエス・ヴァルダ監督の1985年の作品である。  
 この映画でベネチア映画祭金獅子賞を受賞している。  
 ヴァルダ監督の作品といえば「幸福(しあわせ)」(1965年作品)という美しい作品を学生時代に観て以来の出会いになる。  
 アニエス・ヴァルダ監督はかなり寡作の作家のようである。  
 「幸福」から「冬の旅」にいたる20年間に日本に輸入された作品は「ベトナムから遠く離れて」(これは他の数人の監督との共作である)と「歌う女・歌わない女」の2本だけである。  
 この期間に作られた作品が他にあるのかどうか、寡聞にして知らないが、おそらくそれほど多くの作品があるようには思われない。  
 なぜ作品が少ないのか、また撮ろうとして撮れないのか、このへんの事情に関しては詳しくは分からない。  
 しかし数は少ないものの知る限りの作品においてはどの作品も質の高い優れた作品ばかりで、フランス映画を代表する監督のひとりといえる。  

 そんなヴァルダ監督が久々に撮った映画がこの「冬の旅」という作品である。  
 これは冬の田舎道で行き倒れになった若い女性(サンドリーヌ・ボネール)の放浪の旅を彼女と接触した人々の証言によってたどっていくという構成になっている。  
 その静かで現実感あふれるドキュメンタリーのような画面がこの物語を非常に説得力あるものにしている。  
 フランスの田舎といえばプロヴァンスに代表されるように陽光あふれた明るい土地というイメージがあるが、この映画にでてくる田舎は冬の寒々しい風景ばかりで、眺めていると胸を塞がれるような思いがしてくる。  
 それはそのまま主人公の心象風景を表しており、心の闇の深さを感じさせるものである。  
 だが、彼女はそれから逃れようと抗ったり、希望を見い出そうと何かにすがりついたりはしない。  
 ただあるがままの闇を抱えたまま、いつ果てるとも知れない終わりのない旅を続けているだけである。  
 なにが彼女をそうさせるのか、果たして彼女はどういった人間でどこから来てどこへ行こうとしているのか、いっさい説明はされない。  
 そういったことは彼女の続けている旅のまえではなにほどのことでもなく、説明は意味をなさないのだといった姿勢をアニエス・ヴァルダ監督はとっている。  
 こうした姿勢は「幸福」でも見られたものである。  
 若く幸福に満たされた夫婦のまえに美しい女性が現れ、夫がその女性に心惹かれ、妻も女性も両方を同等に愛し、妻に告白し、妻もそれを受け入れたように見えたが、ある日、いつものように家族そろってピクニックに行った森で妻が突然水死してしまう。  
 果たしてそれが事故死なのか自殺なのかいっさい説明はなされない。  
 ただそうした事実を冷徹に追っていくだけである。  
 そしてそこに何を感じるかは観客個々の感性に任せるといった態度である。  
 そこに人生の皮肉を感じたり、男の身勝手さを感じたり、また「幸福」のはかなさを感じたりと様々な反応を示すことになる。  
 「冬の旅」においてもわれわれ観客はさまざまな感慨につつまれる。  
 それは彼女と束の間の接触をもった人たちがそれぞれに抱く感慨ともだぶる。  
 ある者は「彼女のように自由に生きたい」と憧れたり、ある者は「現実逃避」だと批判したり、ある者は「汚くて普通じゃなかった」と嫌悪し、またある者は「あの娘が忘れられない」と涙を流して懐かしむ。  
 そのどれもが当たっているようでいて、だが少しづつ違っているようでもある。  
 しかしそんな理解しがたい彼女の存在に強い印象を与えられたことだけはまちがいなく共通している。  
 そして複雑な波紋を相手の心に残して、彼女はひとり寂しく野垂れ死にしてしまう。  
 だれの忠告も聞き入れず、自分の思いだけで歩き続け、まるで増え続けたネズミがあらかじめ決められた筋書きでもあるかのように自ら海に身を投げて死ぬという不思議な生態を思わせるような死に方である。  
 虫もネズミも人間も死においては何ら変わりがないのだという即物的な視線を感じる。  
 また選択の余地のない冷厳な宿命のようにも思えてくる。  
 虚無と呼ぶには痛々しい、苦く侘びしい結末である。  
 葡萄畑に横たわる汚れた死に顔に胸が塞がれる。  
 そして同時に彼女が出会った羊飼いの青年の言った言葉が思い出されてくる。  
 「自由を選べば孤独になる。・・・・孤独というものは身体を蝕んでいくものだ」  
 深い溜息とともにこの言葉を反芻してしまう。  
 さらに「自由」ということの意味を、そして「生きる」ということの意味をあらためて考えてしまうのである。  
  



 
 
 
    
 
 
3/11 エンジェル・ダスト
(94日本)
 
  
 
 一時期テレビや週刊誌でマインド・コントロールという言葉がしきりに取り沙汰されたことがあったが、この映画はその「マインド・コントロール」を使った殺人を描いたサイコ・ミステリーである。 
 石井聰互監督にとっては「逆噴射家族」以来、10年ぶりの長編映画である。 
 着想はきわめて今日的でおもしろく、久しぶりの作品ということで石井監督の強い意気込みが感じられるのだが、残念ながら空回りばかりでかっての冴えが見られない。 
 ところどころに石井監督らしい煌めきはあるもののあきらかにパワーは落ちている。 
 あの強引に自分の世界に観客を引きずり込んでしまう力強さが影を潜めてしまっている。 
 10年ひと昔というが10年たてば時代も変わる。 
 刀も使わなければいつの間にか錆びついてしまうものである。 
 ものを作るという行為にとって10年という時間の空白は実に重いものがある。 
 ましてや移り変わりの激しい今の時代の時間の価値を考えればなおさらである。 
 石井監督が「逆噴射家族」から間を置かずに映画を撮り続けることができていたとしたならば、もっとパワーのある作品を生み出すことができたのではなかろうか。 
 ふとそんな想像をしてしまう。 
 もちろんこんな仮定の話をしてもしょせん不毛な話題にはちがいないのだが、才能ある監督であるだけに慚愧に耐えないものがあるのだ。 
 いかにも残念だという気持ちになってしまう。 
 作り続けるということ、いや作り続けることができるということが作家にとっていかに重要かということだ。 
 そして日本映画界が才能ある者を空しく見殺しにせざるをえないという現状に暗澹たる気持ちになってしまうのだ。 
 これはひとり石井監督だけの問題ではないだろう。 
 撮りたくとも撮れずにいる映画監督のなんと多いことか。 
 指を折って数えてみるだけでもたちどころに両手にあまるほどである。 
 しかし一方ではこの困難な状況のなかで果敢に作り続けている監督たちがいるのもまぎれもない事実ではある。 
 そしてゲリラ的にしぶとく作り続ける彼らを見ることで頼もしい思いにさせられるのも確かなことなのだ。 
 そんなこんなの感慨にとらわれることになった映画であった。 
 

 
 
 
 
 
 
 
3/14 アニー
(82アメリカ)
 
  
 
 ブロードウェイのヒットミュージカルをジョン・ヒューストン監督が1982年に映画化した作品である。 
 孤児院のおてんばな少女アニーが気難しい大富豪に引き取られ、そこで巻き起こす天真爛漫な騒動を明るく楽しく描いている。 
 アニー役の少女は8000人を越えるオーディションのなかから選ばれたというだけあって子供とは思えない見事な演技を見せておりそのうまさに驚かされる。 
 大富豪役のアルバート・フィニーを向こうにまわして一歩もひけをとらない演技を披露しているのだ。(アルバート・フィニーがテリー・サバラスばりに頭を剃り、歌って踊って奮闘しているのがなんとも可愛らしい) 
 時には名優アルバート・フィニーのお株を奪うほどである。 
 まさに子供と動物にはどんな名優も敵わないということである。 
 
 
 
 
 
 
 
3/20 現代やくざ・血桜三兄弟
(71日本)
 

 ここ1週間は1本の映画も観ないで過ごしてしまった。 
 集中的に何本も観ることもあればこのようにまったく観ないで過ごしてしまうこともある。 
 気分が乗る乗らないということがあるわけで、その気にならないときはあっという間に時間が過ぎているしまっている。 
 今月はわりと気分が乗らない月というわけで、今日まででまだわずか4本の映画しか観ていない。 
 一応の目安としては月に最低でも10本の映画は観るように心がけているのだが、この調子で行くと今月はその数には届きそうにない。 
 なるだけ自然な気分に任せているので、こんな月があるのも仕方がない。 
 「観なければならない」という義務感で映画を観るのはダメだと自戒している。 
 だから観たくないときは観たくないままにまかせておく。 
 そして観たくなれば観たいだけ何本でも集中的に観るわけである。 
 やはり映画を観る基本は「楽しさ」でなければならない。 
 どんな芸術的な作品であっても映画の基本は面白くなければならない。 
 もちろん面白さの質や内容は様々ではあるが。 
 だから面白く観ることができなくなればそれはもう映画を観る価値がないということだ。 
 そしてそれは映画を観なくなる時だということである。 
 だから逆に面白く観られる限りはいつまでも映画を見続けていくということだ。 

 さてそんなわけでこんな時はあまり難しく考えないで観られるものをと思い、久しぶりで東映の古いやくざ映画を観ることにした。 
 菅原文太主演の「現代やくざ・血桜三兄弟」である。 
 監督中島貞夫、そして共演が渡瀬恒彦、伊吹吾郎、荒木一郎で、悪役に小池朝雄というメンバーである。 
 菅原文太主演による「現代やくざ」シリーズとして作られたうちの第5作目の作品で、この作品のあと深作欣二監督によるシリーズ 第6作「現代やくざ・人斬り与太」が作られ、これが「仁義なき戦い」へと繋がっていくことになる。 
 高倉健や鶴田浩二による着流しの任侠映画が下火になりつつあり、後の「仁義なき戦い」シリーズによる実録路線が軌道に乗る前というちょうど両者の狭間に位置する頃の映画である。 
 であるから当然出演者がみな若い。 
 そのなかでも菅原文太の活きの良さが特に目立っている。 
 この頃の菅原文太はドスの利いた鋭さで本物のやくざ以上の迫力がある。 
 飢えた狼が獲物を見定めるような野生の鋭さがある。 
 そんな菅原文太が凄むと怖さと同時に惚れ惚れとする男の色気が感じられる。 
 研ぎ澄まされた刃物のように逃げ出したい恐さと同時に強く惹きつけられる吸引力というか、そんな魅力が全身から発散しているのだ。 
 やはり、やくざ映画は俳優の魅力によって成り立っている映画なのだということを改めて認識しなおした次第である。 
 



 
 
 
 
 
 
3/24 失楽園
(97日本)
 
  
 
 昨年度の流行語大賞に選ばれるほどのブームになった「失楽園」である。 
 どこがそんなにいいのかひとつ見てみようという野次馬根性も働いてビデオを借りてみた。 
 流行のものには流行するだけのそれなりの理由があるのだろうし、大衆の隠された憧れや欲望を満たすものが必ずあるはずで、とにかくいちどは身をもって味わってみないことには話にならないということである。 
 ただ、監督が森田芳光、主演が役所公司ということで、流行にのっただけの安易な作品ではないだろうという予想はあった。 
 その予想は見事に的中した。 
 そして予想していた以上の優れた作品であった。 
 さらにそれは世に言われているような性愛映画などではなく、企業戦士としてがむしゃらに生きてきた男の深い断念の映画だということである。 
 もちろん世に喧伝されているように中年の男女の不倫を題材にしていることからどうしてもその部分のみの興味が先行してしまうのは仕方がないことかもしれないが、そんな話題ばかりが取り上げられすぎて作品としての正当な評価が忘れられがちなような気がする。 

 主人公久木(役所公司)は出版社に勤務する55歳のサラリーマンである。 
 かっては会社の顔である雑誌の編集長として華やかだった彼もいまは閑職に追いやられておりそのころの面影はない。 
 そして意に染まぬ仕事で日々を無為に過ごしている。 
 そんな男がふとしたきっかけで人妻(黒木瞳)と知り合い、不倫の関係に陥り、それによって次第に精気を取り戻していくのだが、やがてお互いの家族の知るところとなって家庭が崩壊していく。 
 だが状況が追いつめられていくほどに愛情は深まり確かなものになっていく。 
 そんな禁断の愛にのめり込んでいくふたりを静かで抑制の利いた画面で美しく描いていく。 
 森田芳光監督は「それから」でも大人の不倫を描いて見事だったが、この「失楽園」ではその映像美がさらに成熟したものになっている。 
 「それから」では実験精神あふれた映像が次々と展開されて森田芳光の眩しいほどの才能の煌めきを感じさせられたが、「失楽園」ではそんな気負いがとれた実に素直で無理のない映像によって描かれている。 
 それでいて紛れもない森田芳光の世界が展開されていく。 
 まさに熟練の域に達した感がある。 

 現在の久木の無為な仕事の様子のなかに編集の第一線で忙しく活躍していた時の映像が繰り返し挟み込まれて描かれるが、そこから久木の人生の哀しさが漂ってくる。 
 そして濃密な時間もいつか自然に色褪せてしまうのだという動かし難い事実を突きつけてくるのである。 
 それは不倫によって結ばれたふたりの関係にも通底してくるものである。 
 今は純粋に愛し合うふたりだがやがて倦怠という日常が否応なくふたりに纏わり付いてくるはずである。 
 それは取りも直さず現在のそれぞれの家庭の姿であり、けっしてふたりの関係も例外ではないということを匂わせている。 
 この世に「絶対」などというものはない。 
 未来永劫変わらないなどというものはないのである。 
 そんなきっぱりとした事実をふたりは静かに見つめている。 
 印象深いエピソードがある。 
 主人公久木の同僚でかっての久木の椅子を引き継いで第一線でバリバリと仕事をこなしている男(平泉征)が突然癌で倒れてしまう。 
 そうなると会社は非情なもので、口では男の復帰を待つようなことを言いながらも早々と後任を決め、その男などいてもいなくてもいいような状態にしてしまう。 
 それはその男がかって同僚の久木たちに対して行っていたことであり、それがそのまま自分の身にも降りかかってきたわけである。 
 思いもしなかった立場に追い込まれた男は今は同類となった久木に涙ながらの愚痴をこぼすしかないのである。 
 企業戦士の変わり果てた姿がここにある。 
 その姿に同世代の男たちは自らの姿を重ね合わせて見ることになる。 
 そして自らの来し方をふと振り返ってみたりするのである。 
 それは久木も例外ではなく、深い諦めと哀しさとともに人生を眺めやるのである。 
 そして閉じられたふたりの満ち足りた世界がいつまでも続くものではないことにも思いを致すことになる。 
 ふたりは潔い死を選択する。 
 それはけっして人生に絶望したからではなく、いやむしろ素晴らしいものを手に入れたからこそそれを封印してしまおうと死を選ぶのである。 
 もうこれ以上生きていても今以上にいいことはないだろう。 
 そうした諦念と変わりゆくものを変わらないままに閉じこめようとするための心中である。 
 絶対などない人生を絶対なものにしようとする無謀な試みである。 
 そしてそれを可能にするかのような死に方を考える。 
 それはふたりの身体が繋がったまま至福のうちに死に至るという方法である。 
 そしてそれを実行し、歓喜のなかで死んでいく。 
 深い無常観を残して映画は終わるのだが、不思議と爽やかな印象が残っている。 
 不倫につきまとう湿った感覚というものが見られないのがその大きな理由である。 
 それは森田監督に備わった資質であり、彼の作品に共通する大きな特徴でもある。 
 そこがきわめて現代的なところであり多くの共感を呼ぶところでもある。 
 これはまさに大人のメルヘンであり、それを嫌みなく美しい作品として昇華させた森田芳光監督の手腕には素直に拍手を送りたいと思う。 
 



 
 
 
 
 
 
3/25 瀬戸内ムーンライト・セレナーデ
(97日本)
 
  
 
 「瀬戸内少年野球団」「少年時代」に続いて篠田正浩監督が自らの戦争体験にこだわって撮った映画である。 
 そしてこの3本の映画をひっくるめて彼の戦争3部作と呼べるものになっている。 
 まじめな軍国少年であった篠田正浩はいわゆる教科書を墨塗りした世代である。 
 終戦とともにあらゆる価値感が逆転し、昨日まで信じていた教えがすべて間違っていたと教えられた世代である。 
 昨日まで絶対であった皇国史観が一夜にして民主主義に変わるという体験はこの世代の少年少女たちに大きな影を落としている。 
 それは彼らのトラウマとなって今も鮮明に残っている。 
 芸術に心開いた感受性豊かな少年であった篠田正浩にとってはことさら深い傷であり、自らを語る上でどうしても避けて通れないものになっている。 
 そして50歳を過ぎて初めてこれらの体験をベースにした映画を撮ることになった。 
 おそらくその年齢になってようやく自分の戦争体験を客観的に見つめることが可能になったのではなかろうか。 
 また、その年齢になって改めてもう一度それを見つめ直してみようという静かな決意が生まれたにたのに違いない。 
 そういった意味でこれらの映画は篠田正浩の少年時代の体験へと帰り着く自伝的な要素の強い映画という側面があり、そこここに 彼の体温に近いような感覚的な表現が見て取れるのである。 
 郷愁があり、悔恨があり、喪失感がある。 
 それらが複雑にからまりあい、作家としてそこから超然としていようとする気持ちとそこに思い切り浸りたい気持ちが相半ばしているのだ。 
 それが作品の強さでもあり、また逆に弱さにもなっている。 
 それをどう判断するのかがこれらの作品への評価の分かれ目になるのだろう。 
 私の場合は少なくとも篠田正浩の心情を吐露したこれらの作品に対しては好感をもっている。 
 彼のこれまでのデモーニシュな作品群に比べれば多少食い足りない部分があるのも確かだが、こうした淡々とした作品にも捨てがたい魅力を感じている。 
 20代の頃には20代なりの映画があるように60代(この作品当時は66歳)には60代の考えと映画があるわけで、それを成熟と見るか後退と見るかは人それぞれで微妙に異なるところであろうが、若々しい感性を持ち続けて映画を作り続けている篠田正浩の場合は間違いなく成熟しているのだといえるのではなかろうか。 
 そして物事の本質を的確に掴み取る明快な頭脳と日本の古典をベースにした素養のうえに独自の世界を作り上げていく芸術的な感性の両面をもった篠田正浩がこうした静かで優しい世界を抱えもっていることに微笑ましさと親近感を感じるのである。 
 

 
 
 
 
 
 
3/26 ひみつの花園
(日本)
 
  
 
 女子高生の奇妙な放浪体験を描いた「裸足のピクニック」で監督デビューをした矢口史靖監督の第2作目の作品である。 
 こちらの映画も前作同様に若い女性が主人公である。 
 彼女はお金大好き、お金が生き甲斐のちょっと風変わりな銀行員である。 
 そんな彼女が勤務する銀行が強盗に襲われ、人質として拉致されたことから白日夢のような風変わりな冒険が始まる。 
 強奪されたお金を巡っての彼女の孤軍奮闘が矢口史靖監督の奇妙でおかしな感覚で描かれていく。 
 コミック漫画を見ているようなおかしさはますます快調である。 
 


 
 
 
 
 
 
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