2001年日本作品
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監督/原作/脚本: 橋口亮輔
製作/企画: 山上徹二郎
撮影: 上野彰吾 美術: 小川富美夫
音楽: ボビー・マクファーリン
録音: 高橋義照 照明: 矢部一男
整音: 斉藤禎一
出演: 田辺誠一/ 高橋和也/ 片岡礼子/
秋野暢子
冨士眞奈美/ 光石研/ つぐみ/
沢木哲/ 斉藤洋介
深浦加奈子/ 岩松了/ 寺田農 |
「ハッシュ!」は30代のゲイのカップルと、ひとりの女性の物語。
そのカップルに女性が、人工授精という方法を使っていっしょに子供を作ろうともちかける。
そしてそのことがきっかけで、2人の安定した関係が揺らぎはじめるとういう話。
この映画を監督した橋口亮輔は、自らゲイであることをカミングアウトした人だ。
さらにこれまでに撮った2本の映画は、いずれも「ゲイ」が主人公である。
そういった意味では、かなり特殊な存在ということになるだろう。
ただ「ゲイ」を扱っている映画とはいっても内容はけっして特殊なものではない。
主人公が「ゲイ」であるという設定以外は、ごく身近な問題を扱っており、他の映画を見るのと同じような感覚で共感できる。
こういうことってよくあるなあと思わず頷いてしまうような場面が多く、そのことでしばしば笑いを誘われる。
日本映画には「ゲイ」を真っ正面から描いた映画、「ゲイ」が主人公といった映画はまだまだ数が少ない。
それでも思いつくところをあげると森田芳光監督の「キッチン」(吉本バナナ原作の映画化)、松岡錠司の「きらきらひかる」、さらに最近のものでは「非・バランス」といった映画があげられる。
ただ監督本人が「ゲイ」で、しかも作品すべてが「ゲイ」を扱ったものということになると橋口亮輔しかいない。
そういった意味では特殊であり、独自性の強い映画ということになるかもしれない。
だがそれでいて内容はけっして特殊でも異端でもなく、ひじょうに普遍性に富んでいる。
ゲイが登場する日本映画といえば、たいていは女装した男が登場して面白おかしく振る舞うといったステレオタイプなものばかりが目につくが、橋口はそれに対して異議申し立てをする。
そういった人間ばかりがゲイなのではなく、ごく普通の男の子、日常の中に普通に存在している人間の中にそうした傾向をもったものがいるというのが、ほんとうにリアルな現実なのだと考える。
そうした興味本位に流れる映画ではないもの、日常の中に普通に存在するゲイの男の心情や人間関係を、リアルに撮りたいというのが彼のスタンスだ。
彼の映画作りの出発は、自らの「ゲイ」の問題と真っ正面から向かい合おうとすることから始まっている。
「カミングアウト」できない自らの苦しみや悩みを、映画を作ることでいくらかでも解放したいというのが、彼の映画作りの大きな動機なのだ。
その事実とどう向き合えばいいのかわからない、そんな未整理で困難な悩みや心情を、作品を作るなかからあぶり出し見つめ直そうとする。
彼にとって表現するということはまさに生きていくことと同義であり、切実な思いの行き着く先に映画が存在していたということになる。
そして社会的にマイナスと思われるこうした要素も、映画や小説といった創造の世界では逆に大きなプラスになりうるというのも事実である。
のっぴきならない問題、どうしても描きたいテーマを抱えているということは、創造の世界では大きな力だ。
こうして彼は映画という表現手段を獲得することで、自らのマイナスの要素をプラスに転化することができたというわけだ。
そしてそれこそが彼の最大の武器なのである。
「渚のシンドバッド」ではゲイの高校生が、「二十歳の微熱」ではゲイの大学生が主人公だったが、今度は30代のゲイのサラリーマンが主人公になっている。
高校生、大学生、そして30代のサラリーマンと、主人公たちの世代が段階的に変わってきているが、これはひとつの線で繋がった人物というふうに考えればいいだろう。
さらに「渚のシンドバッド」も「二十歳の微熱」もそうであったが、「ハッシュ!」の場合も男ふたりに女ひとりといった構図で描かれている。
そして彼らの日常生活がきめこまかく丹念に描写されていくなかで、彼らの鬱屈が少しづつ浮かび上がってくるといったところも共通した描き方である。
自由で気ままだがなんとなく味気ない生活。
果たして自分の人生、このままでいいのだろうか。
そんな人生にたいする漠然とした物足りなさを抱えた3人それぞれの生活が、映画の冒頭で淡々とスケッチされていく。
そのあたりの空気感というか気分を描くのがなかなかうまい。
その3人が出会って、彼女から子作りの相談を持ちかけられる。
「結婚とか、つき合うとかではなく、子供がほしいの」と言って。
そんな突拍子もない提案がまったく不自然とも思えないのも、そうした彼らの日常という背景がきっちりと描かれているからであろう。
この女性を演じるのが片岡礼子。
過去にいろいろと訳ありであったことが見え隠れしている。
将来に希望もなく、家族とも絶縁状態で、毎日をただひたすらやりすごすだけといった生活を送っている。
人との親密な関わり合いはあきらめて、自分ひとりの殻にこもるだけ。
そんな後ろ向きで投げやりな生活を送る30代の独身女性から投げかけられた意表をついた提案。
戸惑いながらもゲイのカップルは真剣に受け止めようとする。
そしてそれが平穏に見えた彼らの生活に大きな波紋を巻き起こすことになる。
さらに家族を巻きこんで、波紋はいっそう大きなものになっていく。
そしてそれを引き起こしたそもそもの原因が、田辺誠一演ずるゲイの主人公の優柔不断さというところもおもしろい。
もうひとりのゲイを演じているのは高橋和也、彼はすでにカミングアウトをしているゲイだが、田辺誠一演ずる主人公は自分がゲイであることをひたすら隠して生活している。
彼の態度はいつも曖昧で優柔不断、そんな性格がわざわいして、いつも問題を複雑にしてしまう。
そんな彼を同僚の女性が好きになり、それにたいして彼が曖昧な態度をとり続たことで一波乱が起き、その余波で家族を巻きこむことになってしまうのである。
橋口監督の描く映画は軽くしなやかだ。
そして人間を見据える目が確かである。
登場する人間たちはいずれもリアリティーあふれる人物ばかりで、それぞれがなるほどと思えるセリフを口にする。
それはそれぞれの立場から発せられた嘘偽りのない本音であり、けっして間違ったものではないことがよくわかる。
だからどの言葉も正しく思えてしまう。
そうした本音同士のぶつかり合いのなかから、微かだが希望のようなものが見えてくる。
そしてその先に何があるのか、映画は明確にしないまま終わる。
選択はわれわれ観客に任せられたわけだが、そのことでわれわれは長く余韻を引きずることになる。
そして彼らそれぞれの生き方をいつまでも反芻することになるのである。
( 2003/01/20 )
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