山田洋次監督、初の本格時代劇、さらに藤沢周平初の映画化作品。撮影は時代劇ということで松竹京都撮影所で行われたが、これも山田監督にとっては初めてのこと。
時代は幕末、庄内地方の下級武士「井口清兵衛」が主人公。
彼は貧しい下級武士、その貧しさのなかで妻が病に倒れ、長年の治療のためにさらに貧窮、そしてそのかいもなく妻は他界してしまう。
清兵衛は残されたふたりの娘と半分ボケかけた老母をかかえて生きていかざるをえなくなる。
そんな貧しさから身なりにかまうゆとりもなく、いつも古着同然の身なりをしている。
そして家族を養うために内職、畑仕事にと追われる毎日だ。
そのために城中の仕事が終われば同僚のさそいも断って、そそくさと帰宅するのが常である。
たそがれ時に決まって帰ってしまうそんな清兵衛を同僚たちはからかい半分に「たそがれ」と呼んでいる。
そういう男が主人公の物語。
こうした境遇は原作者藤沢周平の実生活を反映したものでもある。
彼が小説家としてデビューする前に彼の奥さんは若くして癌で亡くなり幼い娘と老母をかかえて生きて行かざるをえない状況に追い込まれている。
そんな孤独とやるせなさが作品に切実に反映しているのである。
演じるのは真田広之。
適役であり、これまでの俳優生活のなかでも最高の演技を見せてくれる。
この物語を撮るにあたって山田監督はまず当時の武士がどのような生活をしていたかを忠実に再現しようと考えた。
「日常性」を大切にする山田監督らしい試みである。
そうした武士の一日のリアルな再現はかつて黒澤明監督も考えたことがあるが、結局あまりにも資料がなくて断念、そこから方向転換をして「七人の侍」が生まれたという経緯がある。
だが山田洋次はそれを想像力で補いながらリアルな再現を試みている。
貧しい下級武士はなにをどのように食べ、どんな仕事をしたのか、そしてどんなものを着て、どんな家に住んでいたのか。
また囲炉裏の炎と行燈のうす明かりだけの夜がどんなものだったのか。
それまでの時代劇の決まりごとをいちいち洗い直し、武士の暮らしをリアルに再現していったのである。
さらに舞台が庄内地方ということでセリフは庄内弁を使う。
とくに主役の真田広之の庄内弁は印象に残る。
心地よくいつまでも耳に残っている。
貧しい清兵衛の着物の汚れ、ほころびなど徹底的に細部にこだわり、さらに清兵衛のかつらはさかやきの伸びた特注品を使用して実にリアルである。
こうしたディテールにこだわることでまるでその時代その地方で実際に生きて生活しているようなリアリズムが生まれている。
貧しい生活をなんとか支えようと庭に畑を作って野菜を育て、夜は囲炉裏ばたで虫かご作りの内職に励む下級武士の生活。
百姓と変わらぬ貧しい生活だが、清兵衛はけっして自分の身を不運だとは思っていない。
いやむしろその生活を楽しいものだとさえ思っている。
清兵衛のセリフ「娘が日々成長していくのを見るのは畑の野菜や草花が日々育っていくのを見るのと同じでとても楽しいものでがんす。」
貧しいが暖かい生活。それがほのぼのと描かれる。
粗食だがうまそうな食事。父が子に教え諭す言葉。娘が父親を心底慕う姿。
現代劇だと違和感をおぼえてしまいそうな描写が時代劇だと素直に受け入れることができる。
それが時代劇のよさでもある。
そんなささやかな幸せを守るために不器用な男は精いっぱい生きている。
その姿に強い共感をおぼえる。
そんな清兵衛に突然やってくる幼なじみ朋絵との再会。
酒乱の夫から逃れ離縁して実家に帰ってきた朋絵が清兵衛を尋ねてくる。
かつてほのかに憧れた幼なじみの朋絵。
だが身分の違いから清兵衛は朋絵に本心を打ち明けることはしない。
貧しい彼の妻になることで朋絵が幸せになれるはずはない、そう考える清兵衛は朋絵への思いを胸の奥深くに秘かに仕舞いこむのである。
そんなふたりの関係が胸に迫る。
朋絵を宮沢りえが演じているが、慎ましさのなかにも華がある。
かいがいしく清兵衛一家の手助けをする姿が絶品。
貧しい家の中が急に陽が射したように明るくなっていく。
彼女の酒乱の夫を演じるのは大杉漣。
身分の高い侍だが酒癖が悪く、世間の鼻つまみ者、こんな男とは関わり合いになりたくないと思わせる人物をうまく演じている。
その男が朋絵の実家に酒に酔った勢いで乗り込んでくる。
そこへ朋絵を送り届けた清兵衛が鉢合わせをし、騒動に巻き込まれた末に彼と果たし合いをするはめになってしまう。
相手は居合いの達人。
だがここで清兵衛の意外な能力が明らかになる。
決闘はご法度のなかその災難を逃れるために彼は真剣を使わず棒きれで相手を打ち負かしてしまうのである。
彼の隠された才能が初めて明らかになる。
その小気味よさ。
ほんとうに強い者はその強さをひけらかしたりはしない。
またそれがほんとうに強い武士の心得でもある。
そしてその強さが「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれながらも己の信念をつらぬき通す生き方を支えている。
娘や老母、さらには朋絵にたいする優しさもこの強さがあってこそである。
ほんとうの優しさというものは強さがなければ生まれない。
目立つことのない勇気や強さ。
これぞ男だ、そんな思いが浮かんでくる。
だがこのエピソードはいっぽうでそんな能力を持ちながらも不遇に甘んじなければならない侍社会の不条理さもあらわしている。
そんな不条理さのうえにさらなる不条理が清兵衛の身にふりかかってくる。
この映画のクライマックスともいうべき上意討ちである。
藤沢周平作品の通り相場であるお家騒動がこの物語でも持ち上がり、その事後処理として敵方についた剣の達人余吾善右衛門を討ち取るようにと清兵衛に命令が下る。
上からの命令は絶対である。
自分の意志とは関係なく、それがどんなに理不尽な命令であろうと黙って従うしかないのが武士の世界である。
殺すか殺されるか、すべてを捨ててギリギリの修羅場に立ち向かうことになった清兵衛。
仕事よりも家庭を大切に思う清兵衛に藩に殉じるような命令が下るという皮肉。
上意討ちの前夜、子供たちが寝静まったのを見計らって庭に立つ。
長らく刀を手にしたことのない鈍った体をほぐすように刀をなんども振り下ろす。
そして部屋に戻ると今度はその刀を砥石にあてて研ぎ始める。
その父親のただならぬ姿をふと目覚めた娘が垣間見てしまう。
いつもとは違う父親の真剣な姿に声をかけることもできずじっと見つめる娘の不安な眼差し。
不気味に張りつめた緊張感が漂う。
翌朝、ひとりではできない身支度を思い切って朋絵に頼むことにした清兵衛。
突然の呼び出しにただならぬものを感じた朋絵は取るものもとりあえず駆けつける。
清兵衛の身支度をかいがいしく整える朋絵。
そしてすべての準備が終わったところで、清兵衛はそれまでいちども口にしたことのない思いを朋絵に打ち明ける。
死を前にして初めて出て来た心情の吐露である。
嘘偽りのない朋絵を想う気持ち。男の純情である。
こういったシーンは時代劇ならではのものだ。
感情を表に現さないのが武士の美徳。
その秘かに押し殺してきた気持ちがこうしたギリギリの状況で堰をきったように迸しり出てくる。
清兵衛の複雑に絡み合った心情を思うと涙があふれて止まらない。
そしてクライマックスの決闘シーンへと足を踏み入れていく。
この決闘シーンは一週間以上の時間をかけて撮影されたそうである。
剣の達人余吾善右衛門を演じるのは前衛舞踏家の田中泯、暗黒舞踏の流れを汲む舞踏家で、映画は初出演。
3ヶ月みっちりと剣術の稽古を積んだというだけあってこの殺陣のシーンは息を呑むほどすばらしい。圧倒的な存在感だ。
いっぽうの真田広之はもともと殺陣のうまい役者として定評があるが、ここでは型にはまった決められた殺陣ではなく、ほんとうに斬り合っているようなリアルな殺陣ということでその意気込みは田中泯同様生半可なものではない。
火花を散らすようなふたりの殺気が息苦しいほどに伝わってくる。
しかもそれが狭い室内でくりひろげられるというところがミソである。
柱や障子、鴨井といったものが刀の動きをさえぎるなかでの立ち回りである。
動きが制約されているだけにかえってそれが凝縮されてほんとうに命のやりとりをするような斬り合いに見えてくる。
そして注目すべきはそんなふたりがある意味で相似形ともいえる存在だということだ。
余吾善右衛門は長い浪人生活の末にようやく海坂藩に召し抱えられた侍である。
そして浪人生活の窮乏のなかで妻も娘も失ったという過去をもっている。
それが仕官によってようやくにして道が開けてきたと思った矢先の粛清である。
武家社会の理不尽さに翻弄され続けたという点においてふたりは共通の立場に立った侍なのである。
そんなふたりが命のやりとりをする。
宮仕えの理不尽さ、やるせなさ、現代サラリーマン社会の縮図ともいうべき構図が見えてくる。
人間が生き生きと個性的であることが許されなかった時代。
だからこそそこに収まりきれなかったものが余計に光り輝いて見えてくる。
この映画は青春もの、純愛もの、家族愛の物語、サラリーマンもの、さらには活劇、サスペンスといろんな要素をもっている。
そのどこに視点を置くかで映画はさまざまに見えてくる。
そんな幅広さと奥行きの深さをもった映画である。
山田洋次は「日常」のあたりまえの生活のなかに真実を見ようとする監督、また藤沢周平も同じ視点をもった小説家である。
それは弱者の視点である。
陽の当たらない場所に生きる者、時代に取り残された者への限りない愛着と優しさを感じることができるのだ。
そこに深い共感をおぼえる。
今年いちばんの傑作、そして間違いなく後々まで名作として語り継がれる映画である。
2002/11/22
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