映画書・考
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「勝手に映画書・考」(重政隆文・著)

 著者は45歳の大坂芸大芸術学部の助教授である。 
 残念ながら、私はこの本を読むまで著者のことを知らなかった。 
 この本は、今は休刊している「くまもと映画手帳」という雑誌および「銀幕」という雑誌に連載されたものをまとめたものである。 
 一般的にあまり知られていない地方誌であり、その存在を知ることはほとんどないと思われるような出版物での連載と云うことで、この本によって初めて目にしたわけだが、そんなローカルさを越えて内容は濃く、示唆に富んだものである。 
 そのおもしろさに一気に読んでしまった。 

 著者は頑固なまでの「映画館主義者」である。 
 映画は映画館で観るものという考えを頑なに守り続けており、いまだにビデオを持たない生活をしている。 
 そんな著者がここ10年間に出版された映画関係の書籍と映画について書きつづった文章をまとめたのが、この本である。 
 ここで取り上げられた映画の本はぜんぶで253冊にのぼる。それだけの数の映画書を読んで内容を批評するということも驚きだが、こんなにも多くの映画書が次々に出版されているということにもあらためてびっくりさせられる。 
 著者も書いているが、「映画書がさかんに出版される時代というのは映画があまり観られなくなった時代だからこそなのだ」というのはなんとも皮肉な現象といえよう。 
 ひと昔前に映画ファンだった人たちが、様々な理由で今は映画を観なくなっており、せめてわずかでも映画との関わりを持ち続けようとして映画書を読む。 
 そんなことも映画書が多く出版される(売れる)理由のひとつになっているのではないかと分析している。 
 なるほど、そういうこともあるかもしれないなという気がする。  

 映画館で観る映画しか映画として認めないという「映画館主義」を表明する著者は、そのこだわりと同様、映画と映画書に対する批評も辛辣で容赦がない。 
 その斬り口の見事さに思わず納得させられてしまうこともしばしばである。 
 相手が誰であろうと言うべき事は言うといった潔さがあり、そしてそれが実に小気味いい。 
 彼はそういう批評態度を堅持するためにどの映画関係者とも一定の距離を保とうとしている。 
 批評家の陥りやすい例として、親しくなったが故に批評の矛先が鈍るということがあり、そうした態度を見逃さず辛辣に批判をする。 
 「観る前からほめたたえようと構えている批評家の群」がおり、これは「同じく映画完成以前から馬鹿にし、観る時もアラ探しに徹するような批評家の群と同様非難されるべき」であるとして、こうした安易な批評の欺瞞性を強く批判する。 
 そして「駄目な作品を駄目といわない批評家は一切信用しなくていい」と言い切る。 
 だから試写会で映画を観ずに、あくまでも普通の映画館で観るという姿勢のなかには、彼自身がそのような批評に陥らないためということも含まれているのである。 
 あくまでも自由な発言ができる立場に立とうとする。 

 確かに「映画館主義」という考えは正論で、それに対しては素直に頷くしかないが、地方に住む映画ファンとして言うならば、大いにビデオに助けられているということも無視できない事実なのである。 
 私の場合を例にとれば、東京に住んでいる時には、マイナーな映画も自由に観ることができたが、弘前に移り住んで以降はほとんど不可能になってしまった。 
 移り住んだ当初の数年間はまだビデオもほとんど普及しておらず、また新しい環境や仕事に慣れることに精一杯で、映画ファンとしては全くの空白期間になっている。 
 映画館にも行かず、わずかにテレビ放映される映画を見るだけという生活を数年間続けている。 
 しかしその後のビデオデッキやレンタルビデオの急激な普及によって、数年間の空白を埋めるとともに、今まで見ることのできなかった数々の名作も観ることができるようになってきた。 
 これはかって名作を求めて通った名画座と呼ばれた映画館の機能に変わるものであり、東京一極集中型の文化構造をもった現在の日本における私のような地方在住者にとっては非常にありがたいメディアなのである。 
 そして不思議なもので、ビデオで映画を見始めると映画館に足を運ぶ機会も自然と増えてきたということである。 
 ビデオというメディアの普及は私の映画環境を一変させ、再び映画との親密な関係を築いてくれたのである。 
 今は手軽に名作を家で観れる幸せをかみしめている。 
 もちろん著者の云う「映画館主義」は映画を観る態度として正しく、本来そうあらねばならない態度である。 
 映画館の暗闇という非日常の世界でしか味わえない映画体験こそ映画本来の真摯な鑑賞であることには異をさしはさまない。 
 そしてそれを実践し守り通していることには深く敬意を払う。 
 私自身も映画ファンとして努めてそうあらねばならぬと自戒をこめて思う。 
 しかし、裏返して考えてみると著者がそういった考えに頑なにこだわらなければならないほど、現在の映画館の置かれた状況が厳しいものだということであろう。 
 そしてその衰退にビデオが大きく影響していることも動かせない事実である。 
 私のようにビデオによって映画と再び出会うものがいる一方で、映画館から足を遠ざかせる役目をはたしていることも無視できない事実である。 
 ビデオの功罪相半ばするところである。 
 しかしながら、ビデオの普及するずっと以前から映画産業の凋落があったのも事実ではある。 
 映画館とビデオといった二元論だけで語られるほど簡単な問題でないのはもちろんのことである。 
 だがこのように声を大にして叫び続けることで映画館という滅びゆく文化を守り続けようとする著者の決意は貴重なものだし、大事なことであろう。 
 そしてその思いには共感するところも多い。 
 また、著者自身、この「映画館主義」を偏った考えであることを承知の上でなおかつその主張をしているわけで、頑なに我を通すことで自分の立場を鮮明にし、そこから映画書及び映画の批評を繰り広げていこうとしているのである。 
 教えられることの多い本である。 
  



 著者=重政隆文 
 発行所=松本工房 
 発行=1997年9月1日 
 
  
 
 
「あおもりシネマパラダイス」

 青森県は映画と関わりの深い県である。 
 映画の舞台としてこれまでに数多くの映画に登場している。また県出身の映画人の数も多い。 
 これまでにも青森の自然や風土を求めて多くのロケ隊が訪れている。 

 映画誕生百年にあたる平成7年に、そんな映画と関わりの深い「映画王国・青森」を県内ロケが行われた映画によって検証してみようという試みが東奥日報夕刊紙上で一年間にわたって行われた。 
 そしてその連載を新たにまとめたのがこの「あおもりシネマパラダイス」という本である。 
 ここでは過去、青森でロケ撮影された代表的な映画80本が紹介されている。 
 この他にもロケは行われなかったが青森が舞台になっている映画や県出身の映画人の関わった映画や原作者として関わった映画等、青森県と少しでも関連のある映画を加えていくと優に五百本は越えるのではないかということである。 
 まさに「映画王国・青森」を名乗るにふさわしい。 
 推測だが、この数字はおそらく北海道に次ぐもの、いやあるいはそれを凌駕するものかもしれない。機会があれば一度詳しく調べてみたい。 
 ここに登場する映画をみてみると邦画五社の作品はすべてあり、他に独立系の映画も数多く、また文芸作品からアクション映画、ミステリー、メロドラマ、歌謡映画、時代劇、SF作品とあらゆるジャンルの映画が撮られていることがわかる。 
 ちなみによく知られた主な作品をあげてみると、「飢餓海峡」「魚影の群」「海峡」「津軽じょんがら節」「竹山ひとり旅」「夢の祭り」「リンゴ園の少女」「乱れ雲」「赤いハンカチ」「続網走番外地」「石中先生行状記」「砂の器」「草を刈る娘」「裸の十九才」「御用金」「田園に死す」「忍ぶ川」「火宅の人」 
 どれも映画史に名を残すような名作揃いである。 
 また、なかには「われ幻の魚を見たり」といった珍しい映画もあり、これは十和田湖のヒメマス養殖に成功した和井内貞行の一代記を映画にしたものである。 
 この映画の主演がなんと大河内伝次郎で、監督が伊藤大輔なのである。 
 あの幻の名作「忠治旅日記」の最強コンビまでがロケ撮影に訪れているのである。 
 懐かしいところでは昭和31年に作られた「土俵の鬼 若ノ花物語」がある。 
 弘前市出身の初代若ノ花が主演した実録映画で、栃若に熱狂したわれわれ年代の者にとっては格別印象深い映画である。 
 そして、こうした映画のなかでも最大規模のロケ撮影が行われたのが橋本プロ製作の「八甲田山」であった。 
 新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」を原作に作られたこの映画は昭和50年2月から昭和52年2月までの足掛け3年にわたって撮影されており、その間のエキストラの数は延べで八千人を越え、そのほとんどが県民の協力によるもので、また厳冬の八甲田山での撮影は県民の協力がなければおそらくなしえなかっただろうというほどの難行であった。 
 そうした経緯からこの映画に「県民映画」の冠をかぶせて特別の思い入れと愛着を表しており、この本でも特集の形でとりあげて検証している。 
 昭和50年2月といえば、私が弘前へ越してきたのが49年9月のことだから、ほとんど時期を同じくして撮影が始まったことになる。 
 連日のように撮影の様子が伝えられていたことを思い出す。 
 また近所に住む登山家がしばしば撮影にかり出されていくのをなにげなく眺めていたことなども思い出す。 
 そして、偶然のことだがこの映画に先だって、新田次郎の小説を漁って読んでいたことなども同時に思い出すのである。 
 しかし、その時の私にはなぜかそうしたことがこの作品の関心へとつながってはいかなかった。 
 わりと醒めた目で撮影の記事を眺めていたように思う。 
 弘前に移り住む前の私は東京で4年間、撮影所のスタッフとして働いていた。 
 そしてその前年の秋に撮影所での生活を断念し、弘前で新しい生活を始めたばかりであった。 
 当時の私にはどこかでこういう話題にはできるだけ無関心を装おうとする意識があったように思う。 
 しばらくはこうした話題から離れたところにいたいというような気持ちがあった。 
 だから当然のことながら、この映画を観たのも封切り後数年を経てからのことである。 
 この特集記事を読みながら、ふと当時のそんな自分の事が思い出されてきたのである。 

 長い撮影期間を経て、映画は完成され、全国上映に先立っての県内特別上映会が行われている。 
 県民の参加意識と関心の高さを反映して、この特別上映会には大勢の観客がつめかける。 
 そして、この上映会の成功の勢いをかりて全国上映も記録的な大ヒットとなるのである。 
 こうした経緯や撮影のエピソードなどを読んでいると、ふと「ねぷた祭り」にかけつける県民の姿との共通性を感じてしまう。 
 映画の撮影にはいわば一種の祭りと呼べるような側面がある。 
 様々な準備や用意を経て、大勢の人間のエネルギーを結集することで非日常的な映画空間を作り上げていくのだが、そこには祭りとも共通する晴れがましさや高揚感といったものがあり、次第に形を成していく歓びや達成感といったものがある。 
 ひとつの目標に向かってそれぞれの知恵や技術を駆使していくなかから生まれる一体感がある。 
 そんな映画作りの魅力をいったん味わうと映画作りという祭りに誰でもが夢中になってしまうのである。 
 映画「八甲田山」は県民にとってはまさに季節外れの「ねぷた祭り」であった。 
 そして「ねぷた祭り」と比べても遜色のないエネルギーを燃焼させることのできた大きなイベントであったのだ。 
 だからこそ今でも参加者の心に強く刻み込まれており、熱っぽく語り続けているのである。 
 この特集記事を読みながら、ふと、そんなことを考えてみたのである。 

 巻末には県出身の映画人の紹介や、県内の映画興行の歴史と現状なども書かれており、青森県と映画との関わりのおまかなアウトラインがこれによって見渡せるようになっている。 
 われわれ映画ファンにとっては実に興味深い資料なのである。 
  



 発行所=東欧日報社 
 発行=1996年8月8日 
 
 

 
 
川本三郎「君美わしく 戦後日本映画女優讃
 
  
 雑誌「ノーサイド」の特集記事として連載された、かっての銀幕の名女優たちへのインタビューをまとめた本である。 
 ここには17人の女優が登場する。 
 インタビュー順に記すと、高峰秀子、津島恵子、淡島千景、久我美子、八千草薫、岡田茉莉子、杉村春子、山本富士子、前田通子、新珠三千代、高千穂ひずる、二木てるみ、山田五十鈴、有馬稲子、司葉子、若尾文子、香川京子、といった顔ぶれである。 
 まさに戦後日本映画を代表するスターたちである。 
 かってはスクリーンでしか見ることのできなかった憧れの大女優たちを前にしてインタビューアーの川本三郎は子供のように緊張している。 
 映画評論家であるといった職業人としての意識よりもいち映画ファンとしての意識のほうが勝っているせいであろう、必要以上に緊張してしまい、果たして的確な質問をすることができるかどうかといったことで頭を悩ませている。 
 だが、そんな心配をよそに、いったんインタビューを始めると、どの女優も気さくで、どんな質問にもていねいに応じてくれ、あっという間に予定の時間が過ぎてしまう。 
 そして時には時間を忘れるほど話がはずんでしまい、約束の時間をはるかにオーバーしてしまうこともある。 
 そのへんの川本の微妙な心理と現場の様子が微に入り際に入り詳しく書かれており、その上気した気分がリアルに伝わってくる。読みながらこちらも川本といっしょになって思わずドキドキしてしまう。 
 こうして彼が経験したのと同じような「幸せな時間」をこちらもともに過ごすことができるのである。 
 かなりつっこんだインタビューによっていままで知らなかった事実やエピソードが話されることもあり、映画史の貴重なひとこまを見るようで大変興味深い。 
 特に、前田通子の章ではひときわその思いを強くしたのである。 
 「前田通子」といっても今では一般的にはほとんど知る人も少なく、この17人の女優のなかにあってもひとりだけ異質な存在といえるだろう。 
 そして、その内容においても他の女優たちの華やかな栄光を語るという談話とは異なり、暗く、あまり触れられたくない過去を語るといったものになっている。 
 他の16人が光とすれば、前田通子はひとり映画界の影の部分を担っている。 
 だから、川本の筆遣いも自然と抑えた調子になり、他のインタビューでの無邪気な興奮はここではみられない。 
 むしろ、なんとか彼女のことを書き留めておかなければといった強い使命感にかられて書いている。 

 前田通子はかって新東宝の「グラマー女優」として勇名をはせた女優であった。 「女真珠王の復讐」「海女の戦慄」での大胆なヌード姿は日本映画最初のヌードとして当時としては非常にセンセーショナルなものであり、これによって彼女は一躍新東宝のスター女優になった。 
 しかし、その彼女がある映画のなかで監督からいきなり「裾をまくれ」といわれ、彼女がそれに応じなかったために大騒ぎとなる。  
 いわゆる「裾まくり事件」である。 
 結局その問題が尾を引いて会社を解雇されることになってしまう。 
 厳然と「五社協定」が生きていた時代である。 
 彼女はたちまち映画界全体から締め出しをくうことになる。 
 ここから彼女の苦難の人生が始まっていくのである。 
 川本少年はかって前田通子主演「海女の戦慄」のヌードポスターに心ときめかせたことがあり、また彼女の不幸な経歴を知るものとしてこれまでに何度も彼女の話を聞こうとインタビューを申し込んでいる。 
 しかしそのつど「わたしなど大した女優ではないから」「もう過去のことは忘れていますから」と断られる。 
 そして、十年の歳月をへて、ようやく今回の企画でそれが実現したというわけである。 
 川本にとっても特別思い入れの深いインタビューとなったのだ。 
 「二年前、彼女は、赤坂に小さいながら自分の店を持った。酒があり、手づくりの肴を出す。カウンターだけのほんとに小さな店だが、長い不遇の日々のあとにようやく手にした自分の『ホーム』だ。 
 そのことで彼女の気持ちのなかにまた生きる張りのようなものが生まれたのだろう。自分の過去を距離を持って語れる気持ちの余裕ができたのだろう。 
 その赤坂の店で彼女は迎えてくれた。」 
 こうして念願のインタビューが始まるのである。 
 「事件」のこと、そして「事件」以後の映画会社によるいじめとも思えるような妨害の数々、そしてそんな受難の日々をどうやって生きてきたかということが前田の口から淡々と語られていく。 
 しかし、今ではもうほとんどの関係者が時間の彼方にあり、恩讐を越えた穏やかな前田の笑顔があるばかりであった。 

 確か昭和48年のことであったと思うが、当時、撮影所で私が就いていたテレビ映画のゲスト出演者として彼女が出演したことがあった。 
 私は前田通子という女優のことは何も知らず、同僚に教えられて初めてかっての有名女優だということを知ったのである。 
 そのままであれば、なんの意識も持たず、大勢入れ替わるゲスト出演者のひとりとしての記憶だけで終わってしまったのだろうが、あることで彼女の存在が強く印象に残ることになった。 
 それは衣装合わせが終わった後のことであったが、人目を避けた場所で彼女からきわめてさりげなく「心づけ」を手渡されたのである。 
 そんなことは初めてのことで、後にも先にもこの時限りの経験で、それだけに妙な気分ではあったが、その心遣いが素直にうれしく、やはり昔の女優は鍛えられ方が違う、礼儀作法が行き届いているなあなどと感心してしまったおぼえがある。 
 だが、今こうしてインタビューを読んでいると、それだけではない、もっと深い彼女の思いがそこにはあったように思われてならないのだ。 
 昔の撮影所の伝統的な礼儀作法にのっとった行為というよりも、彼女の何とかスタッフから嫌われないようにという精一杯の気の使いようがあったのではないかと思われるのだ。 
 そんな気遣いをしなければならないほど彼女は映画界全体から疎まれ、いじめられ続けていたのである。 
 そう思うとなんとも哀れであり、このインタビューにたいしても特別の思いがわいてくるのである。 
 そんな彼女の複雑な感情を川本は次のように書いてこの章を閉じている。 
 少し長いが、引用してみる。 

 『実は、約束の前日になって、彼女から「やはり、お断りしたい」という電話があった。さすがに私も「それじゃあ、もういいです。縁がなかったものとあきらめます」と声を荒らげた。それから一時間ほどして、また電話があって、「やはりお受けします」ということになった。 
 私は、はじめ「女優のわがまま」かと思った。しかし、そうではなかった。 
 彼女はインタビューのあいだ、何度か「記者がこわい」といった。無理もない。あの事件のあと、マスコミに叩かれ続けてきたのだ。新東宝を離れてからは、興味本位の記事を書かれ続けた。私とのインタビューを前にして「もしかして、また」と思ったとして当然だ。 
 「こわかったんです、わたし」という言葉に、いまだに癒されていない彼女の心の傷を見る思いがした。 
 インタビューが終わり、彼女がビールを注いでくれた。冷たい最初のひとくちがおいしかった。そして、彼女はカラオケのマイクを持ち、キャバレー回りをしていたころによく歌ったという美空ひばりの「悲しい酒」を歌ってくれた。歌うほどに彼女の目から涙がぽろぽろ落ちていった。 
 その夜、東京の町は、土砂降りの雨がいつまでもやまなかった。』 
  



 著者=川本三郎 
 発行所=文芸春秋社 
 発行=1996年12月20日 
 
 
 
 
 
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