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衛星放送で市川崑監督の「炎上」を観たが、傑作というものは何度見返しても色褪せることはないということを改めて認識させられた。 宮川一夫のカメラ映像の奥深い美しさ、それを支える西岡善信の重厚な美術、さらになによりも処をえた俳優たちの演技の素晴らしさに改めて目を惹かれた。 主役の市川雷蔵のよさは言わずもがなであるが、脇を固める俳優たちの存在が実にいい。 まずは中村鴈次郎が演じる驟閣寺(金閣寺)の住職の聖と俗の2面を複雑に垣間見せる演技が見事である。 寺に来た物乞いを最初は胡散臭そうに見やるのだが、そこに市川雷蔵の視線があることに気づくや急に表情を変えて金を恵んでやるといったふうな俗物ぶりが随所に見られると同時に、驟閣寺放火を「神の裁き」と呟いたり、自分の責任だったとして許しを乞うための全国行脚に出かけたりといったぐあいでつかみどころのない複雑さを見せるのだ。 そしてそんな住職を補佐する信欣三演じる僧侶の俗物ぶりもそれに負けておらず、閉じられた空間としての寺の陰湿さを強調する役柄として印象に残る。 さらに仲代達也が足に障害をもった学生をこれも絶妙に演じており、吃音という障害をもつ市川雷蔵にメフィストフェレスのごとくさまざまな悪意を吹き込んでいく。 障害というコンプレックスゆえに世間を素直に受け入れることができず、世間すべてに敵対するという心のねじ曲がりを若き日の仲代が生き生きと演じている。 そしてその挑戦的な言動や行動が寡黙な雷蔵のある意味での代弁者のようにもなっている。 不安定な足で立ち、精いっぱい虚勢をはる彼の姿は儚げで哀しい。 さらに主人公の複雑な生い立ちの要である両親を演じる浜村純と北林谷栄のふたりも印象が強い。 驟閣寺の住職と学生時代の同期でありながら貧しい田舎寺の住職に甘んじ、胸の病に短い生涯を閉じてしまうという恵まれない男を浜村純が暗い表情で演じている。 そしてそんな父親を雷蔵は心底から尊敬しており、驟閣寺の美しさを称賛してやまない父親の心情を受け継ぐことになるのである。 雷蔵が異常に驟閣寺に憧れ、慈しむことの底にはこうしたなき父親に対する強い思慕があるからなのかも知れないと思わせる重要な役柄である。 回想でふたりが裏日本の暗い海に面した崖に立って話をするシーンが出てくるが、その重苦しい画面の迫力に思わず息を呑んでしまう。 何もいいことのないふたりの不幸な人生を象徴しているような場面である。 さらにそんな父親とは似ても似つかない愚かな母親を北林谷栄がこれまた見事に演じている。 もともとは寺の女中として働いていた無学な女で、夫婦になった経緯は描かれないが、けっして幸せな結婚生活ではなかったことを匂わせている。 それを象徴するような場面として、病気療養中の父親の目を盗んで母親が昼間から間男する場面が出てくる。 そしてそれを学校帰りの雷蔵が偶然目にしてしまうのだが、どこからか現れた父親がその雷蔵の目を優しく塞ぐと連れ去ってしまうのである。 そんな母親を雷蔵は軽蔑しきっており、生きるためと称して驟閣寺の下働きとして住み込むことになってもけっして母親と打ちとけようとはしない。 そんな態度の雷蔵をなにくれとなく世話しようとする北林の姿には母親の哀れさと優しさが、そして少しばかりの打算がにじみ出て哀れである。 こうした母親への反撥と父親への愛情という引き裂かれた感情が雷蔵の孤独にさらに暗い影を落としている。 このようにして演じられる俳優たちの味のある演技とレベルの高い映画技術が絶妙のアンサンブルをみせるこの作品をきっかけに、市川崑監督はこの後、「鍵」「野火」「ぼんち」「おとうと」「破戒」といった数々の文芸映画の名作や「雪之丞変化」といった名作を連発することになるのだ。 そしてこういった代表作がすべて市川崑の大映撮影所時代につくられている。 市川崑のもっとも油の乗りきった時期がちょうどこの時代と期を同じくしたということもあるのだろうが、大映スタッフの一流の技術がいかに市川作品の個性を支えるための大きなポイントであったかということの証明でもあろうと思われるのだ。 そうしたことからも、この「炎上」という作品は市川作品のなかでも大きなターニング・ポイントとなった作品であり、重要な位置づけにある作品ということがいえるだろう。 |
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昨日に引き続き衛星放送で日本映画の名作を観る。 昭和34年に小津安二郎監督が大映で撮った「浮草」である。 昨日観た「炎上」の前年につくられた作品である。 戦前に撮ったいわゆる喜八ものの1本、「浮草物語」のリメークで、「大根役者」の題名で松竹で撮るつもりだったものが、以前から大映で1本撮るようにと要請されていた声に応えて実現したものである。 小津監督はこの機会を捉えていわゆる「小津調」と云われる手法から少し離れた試みをしようとした形跡が伺われる。 言葉を変えて云えば、名カメラマン宮川一夫のよさを自分の作品に取り入れることで新しい血を注入しようとしたのではないかと思われるのだ。 例えば、中村鴈次郎と京マチ子が道を挟んだ軒先で怒鳴りあうシーンに降る雨などはその端的な例であろう。 天気晴朗で雨など降ることがなかったそれまでの小津作品とは明らかに異なった映像である。 ましてその降り方の激しさなどはもう完全に静かな「小津調」からはみだしたものといわざるをえない。 また冒頭に見られるチンドン屋が町を練り歩く場面での大俯瞰シーンなどもそうしたもののひとつであろう。 さらに短いカットやクローズアップの多用といったことも同様の試みといえる。 そうした新しい試みが見られることで従来の「小津調」とはいささか調子を異にしているが、やはり基本的には間違いなく「小津調」であるわけで、そういった意味では破調の魅力を備えた作品ということがいえるだろう。 自らのスタイルを頑固に変えなかった小津監督が新しい試みに挑んでみたということは宮川一夫カメラマンの作り出す映像にいかに小津監督が魅力を感じていたかということの証であろう。 もしこのコンビがこの後も何本か続いていたとしたら、果たしてどんな作品を生み出したことか、ファンならずともぜひ見たかったところである。 この作品では小津映画の常連である笠智衆、三井弘次、浦辺粂子、高橋とよといった松竹の俳優たちや杉村春子も出演しているが、やはりメインは中村鴈次郎、京マチ子、若尾文子、川口浩といった大映の俳優たちで、なかでも主役の中村鴈次郎がいい芝居を見せている。 旅回りの一座の座長の艶っぽさや年輪はやはり中村鴈次郎でなければ出せない味である。 さらに連れ合いである一座の看板女優の京マチ子の気の強さや色っぽさもなかなかいい。 そしてそんな腐れ縁のふたりがどちらからともなく和解し合って旅立つラストは思わず声をかけたくなるような名芝居なのである。 |
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