1999年7月 NO.2
 
 
 
 
7/16 カンゾー先生
(98日本)
 
 
 
 町医者の息子である今村昌平監督が「医は仁術」を実践したなき父親への鎮魂をこめて映画化した作品だそうだ。 
 映画の中で何度も登場してくる「開業医は足だ。片足折れなば片足にて走らん。両足折れなば手にて走らん。」という言葉がそのことを見事に象徴している。 
 まさに全編、主人公のカンゾー先生(柄本明)が息を切らせて走る姿を追い続けているのだ。 
 そしてその疾走の伴走者として看護婦見習いのソノ子(麻生久美子)や料亭紫雲閣の女将トミ子(松坂慶子)、モルヒネ中毒の医師、鳥海(世良公則)や生臭坊主の梅本(唐十郎)といった人間たちがからんでくる。 
 彼らは誰ひとりとしてまともな人間はおらず、どの人物も今村監督好みの破天荒な人間で、いわば世間の常識から踏み外した人間なのである。 
 そしてこうした常識外の人間たちが戦争という狂気のなかではいちばんまともに見えるという逆転が描かれるのだ。 
 なかでも看護婦見習いのソノ子がとくに目立った存在である。 
 漁師の娘らしい勝ち気な自然児で、幼い弟妹を食わせるためには売春も厭わず、そのことになんのこだわりも抱いていないといった逞しい女性である。 
 そして出征する若者の母親に「女を知らずに出征するのは不憫」「女を知らない男は弾にあたりやすい」などと相手になるよう懇願されれるとカンゾー先生に「淫売はいかんゾ」と諭されているにもかかわらず、簡単にその身を提供してしまうのである。 
 まさに「天使の心をもった娼婦」であり、これこそが今村監督が理想とする女性像なのであろう。 
 今村作品の女性は必ず生命力の象徴として描かれ、またすべてのものを浄化する力をもったものとして描かれる。 
 ここでのソノ子もそうした種類の女性の典型として描かれており、この映画の中でももっとも精彩を放った存在となっている。 
 そしてこのような存在のソノ子の心をとらえるのが「医は仁術」を実践しているカンゾー先生というわけである。 
 「先生にクジラの肉を食わしちゃる」と大きなモリを抱えて海に飛び込むソノ子の若いエネルギーをどう受け止めていいのかと困惑するカンゾー先生。 
 「激しいおなごじゃのオー」とただ感嘆するばかりのソノ子の求愛に「好きだというよりもなあー」と言葉を濁すだけである。 
 今村監督はこれまでの作品では常に強烈な性を媒介にした男女の関係を描いてきた。 
 「性的人間」と呼んでもいいような性にこだわる人間ばかりを登場させ、「性」こそが人間の根源であり、行動原理を規定しているのだという立場を貫いてきた。 
 だが、そこからこのカンゾー先生のような「性」を超越した男女の関係、「性」に拘泥しない関係といったところに行き着いたように思われる。 
 そうしたところにもある種、理想のエロスが存在するのだといった思いが伝わってくる。 
  
 エネルギッシュな行動や数々の武勇伝を残してきた今村監督もいまや72才、だが老いたれたといえどもまだまだ枯れ切ってはいないというところをこの映画は教えてくれる。 
 かって見せた圧倒的な迫力というようなものはいまや見ることはできないにしろ、愚かしい人間たちに注ぐ優しく愛すべき視線はますます磨かれてきているように思われるのだ。 
 さらにカンゾー先生の「両足折れなば手にて走らん」という信条に今村監督の映画にかける執念を見る思いがした。 
  

 
製作 飯野久/松田康史 監督・脚本 今村昌平 脚本 天願大介
原作 坂口安吾 撮影 小松原茂 音楽 山下洋輔 美術 稲垣尚夫
出演 柄本明/麻生久美子/世良公則/唐十郎/伊武雅刀/松坂慶子
山谷初男/田口トモロヲ/小倉一郎/小沢昭一/山本晋也/金山一彦/清水美砂
渡辺えり子/田中実/ジャック・ガンブラン/北村有起哉/神山繁/裕木奈江
 
 
 
 
 
 
 
7/17 学校L
(98松竹)
 
 
 
 さすが山田洋次監督と思わせる内容の映画である。 
 この「学校」シリーズは1本目で夜間中学を、2本目では養護学校を舞台に描いてきたが今回は都立の職業訓練校を舞台に選んでいる。 
 ここに通う人たちのほとんどは中高年の失業者で、手に職をつけないことには再就職が難しいという人たちばかりである。 
 彼らのなかには大企業をリストラされた人間もいれば中小企業をリストラされた者もおり、また経営していた工場が倒産した者もいるといったふうにさまざまな人生を歩んできた人間たちが再就職のためにこの学校に入学している。 
 記憶力も気力も体力も衰えた中高年たちが自分たちの人生を切り開いていこうと懸命に奮闘する姿を山田洋次監督は確かな筆力で描いていく。 
 とくに紅一点の主人公小島沙和子(大竹しのぶ)の奮闘ぶりは強く胸に迫ってくる。 
 夫を失い、自閉症の息子をかかえて懸命に生きていた沙和子がある日突然解雇を言い渡される。 
 不況による会社からの一方的なリストラである。 
 そして沙和子の職探しが始まるが、いっこうに見つからず、結局彼女のような条件の厳しい人間は手に技術を持たないことには再就職は難しいということで職業訓練校への入学ということになるわけだ。 
 そしてここでさまざまな人間と出合い、彼らに励まされ、支えられながらボイラーの技師免許を取得するようになるのだが、とくに大会社をリストラされた高野(小林稔侍)との交流が軸になっていく。 
 家庭的にも恵まれず、突然のリストラでなかば自棄になっていた高野がそれ以上の困難を抱えて懸命に生きる沙和子と知り合うことで次第に癒されていき、いつしかふたりの間に愛情が生まれていくというストーリーが無理のない自然な展開で描かれていく。 
 こうした語りは山田洋次監督のもっとも得意とするところであるが、最近はかっての切れ味がなくなってしまい残念な思いをしていた。 
 だが、この映画ではまたその切れ味が戻ってきているのである。 
 それほどふたりのラブストーリーは強く胸を打つ。 
 けっして特別の存在ではないごく普通の中年の男女の心の触れ合いに深く共感させられる。 
 この「学校」シリーズの前2作は特殊な学校の実体を描くことが中心になっており、そうした存在に光を当てるという使命感めいたものが感じられ、美化された教師と生徒の関係などにも素直に共感できないところがあった。 
 そういったことからこの第3作でも生真面目な映画を見せられるのではという危惧をもっていたのだが、本作の学校はあくまでもひとつの舞台設定というだけで、中心になるのはあくまでも大人のラブストーリーなのである。 
 そこに前2作とは異なった味わいがあり、素直に感情移入することができたのだ。 
 大竹しのぶと小林稔侍が実にいい味を出している。 
 健気に生きながらも時として弱気になり、しかしまた思い直して強く生きようとする主人公の姿を大竹しのぶが絶妙に演じている。 
 また小林稔侍が家庭的な悩みをもちながらもそんな彼女を支えることに歓びを感じ、それによって彼自身も励まされていくという不器用な中年男をこちらも見事な存在感で演じている。 
 久しぶりに山田映画によって心洗われたのである。 
  

 
製作 中川滋弘 原作・脚本・監督 山田洋次 原作 鶴島緋沙子
脚本 朝間義隆 撮影 長沼六男 音楽 富田勲 美術 出川三男
出演 大竹しのぶ/小林稔侍/黒田勇樹/寺田農/田中邦衛
ケーシー高峰/笹野高史/余貴美子/中村メイコ/さだまさし
 
 
 
 
 
 
 
7/18 四月物語
(98日本)
 
 
 
 岩井俊二監督が手作り感覚で肩の力を抜いて撮った情感あふれる佳作である。 
 そしてこうしたカジュアルな感覚が大学入学したての女の子の何気ない日常をスケッチしたこの物語にうまくはまって、爽やかな気分が味わえる。 
 岩井俊二監督の才能はこういった映画でこそ発揮できるものなのだ。 
 過ぎ去ってしまう日常の断片のなかから微妙で繊細な心のうつろいや人との触れ合いといったもの、注意深く見ていなければうっかり見落としてしまいそうな出来事をていねいに切り取って、ピュアな映像として表現する。 
 それを観ていると、なにも起こらないかのような日常がまことにスリリングなものに見えてくる。 
 そして親元を遠く離れ、ひとり東京で生活を始めた女の子の心細さと自由さが、自分自身の経験と重なって甘く切なく胸をうつ。たまらなく懐かしい日常だ。 
 新しい世界に踏み出した緊張と不安、だがそこに同時に存在する期待と歓び、そういった心情が彼女の秘かに隠し持ったたくらみによってさらにドラマチックに浮かび上がってくる。 
 思わず頬をゆるめてしまいそうな少女らしい可愛いたくらみ、そこには人の一生のなかで確実に光り輝く一瞬がある。 
 桜の花が風に舞う冒頭の映像とラストの突然の雨が印象的だ。 
 こうした自然描写の美しさが少女の青春への讃歌でもあるのだろう。 
 甘やかな春の風が優しく頬をなでていくのが感じられるような作品である。 
  

 
監督・脚本 岩井俊二 撮影 篠田昇 美術 都築雄二
出演 松たか子/田辺誠一/加藤和彦/藤井かほり/塩見三省/光石研
石井竜也/伊武雅刀/江口洋介/松本紀保/市川染五郎/藤間紀子/松本幸四郎
 
 
 
 
 
 
 
7/19 ビヨンド・サイレンス
(96ドイツ)
 
 
  
 美しい映画である。 
 映像、音楽、物語、どれもが美しい光を放っている。 
 これは両親が聾唖者という家庭に育った娘の成長物語であり、家族の愛を綴った物語である。 
 8才の少女ララの両親は聾唖者である。 
 だが、それ以外は普通の家庭となにも変わらず、彼女は両親の愛に包まれた幸せな毎日をおくっている。 
 利発なララは手話を完全にマスターしており、両親の通訳としての役目を健気につとめている。 
 その通訳も時には自分に都合よく曲げて伝えるといった茶目っ気のあるもので、それさえもがこの家族の無邪気で幸せなエピソードのひとつになっている。 
 子供時代の親子の最良の関係がここにある。 
 お互いの関係に距離はなく、まさに親と子は一心同体であるかのような幸せな日々である。 
 だがその関係も自然な成り行きとして娘の成長とともに変質していくことになる。 
 そしてそこに父親と叔母の確執がからむことでより複雑な形を見せてくる。 
 クラリネット奏者である叔母クラリッサは音楽家として自由奔放な生き方をしている。 
 そんな彼女に少女ララは強い憧れをもっている。 
 その憧れの叔母からクリスマスに彼女がかって使っていた古いクラリネットをプレゼントされる。 
 叔母のようになりたいと考えるララは熱心にクラリネットを練習し次第に音楽の才能を発揮し始める。 
 そして18才になったララは、彼女の才能を伸ばそうとする叔母の薦めもあって音楽学校への進学を決断する。 
 しかし、こうしたことを快く思わない父親が強硬にそれに反対をする。 
 実は彼と叔母との確執のそもそもの始まりもこの音楽を巡ってのものであったのだ。 
 彼らの子供時代、妹クラリッサの誕生日に彼女と父親が楽しげに演奏するさなか突然彼が大声を出して演奏をぶちこわすという騒動が持ち上がる。 
 この事件を契機に、彼と父親、そして妹の関係がぎくしゃくしたものになっていく。 
 おそらく彼がいちばん理解できない音楽というものを通して父親と妹が楽しげに演奏している様子がたまらなく悲しかったのに違いない。 
 子供っぽいジェラシーに思わず奇声を発してしまったのだ。 
 彼にとってはもっとも遠くかつまたトラウマのもとになった音楽の世界に娘が進むというのである。 
 さらにそれをぎくしゃくした関係の妹がすすめるということでよけいに複雑な思いをもたざるをえない。 
 娘が次第に自分の手を離れて妹のほうに寄り添っていくという事実に釈然としないものを感じるのだ。 
 自分が関知しないところで強引に話が進められ、愛する者を奪われるような不本意な成り行きをただ傍観するしかない無力感に心が苛立つ。 
 さらに彼と父親と妹のような関係が娘との間で再び繰り返されることことになるかもしれないとの危惧もある。 
 こうした家族の微妙な関係が短いシークエンスの積み重ねのなかから浮かび上がってくる。 
 けっして彼らはお互いが愛し合っていないというわけではない。 
 いや、むしろ愛情が深すぎるがゆえにこうした確執が生まれてくるのである。 
 それはどこの家庭でも見られる風景ではあるが、父親が聾唖というハンディを負っているというところがこうした親子や兄妹の関係をより複雑に見せているのだ。 
 叔母が言うセリフ、「彼の前に出るとこっちが悪いことをしたみたい」がいみじくもそうした複雑さの一端を現している。 
 また長年両親の手足となって献身的に尽くしてきた娘ララにとってもこの束縛から逃れるということは実に複雑で困難なことのようにも思われるのだ。 
 「おまえが聾だったらいっしょにいられるのに」という言葉に父親の悲しみと戸惑いが、さらには娘への強い執着が感じられる。 
 そして同時にそれは障害者としての父親の頑なな心の現れでもある。 
 だがこうした愛の束縛から逃れていくことこそが若さの特権というものであろう。 
 父親と衝突し、本音をぶつけ合ってついにララは家を出る。 
 そして叔母のもとへ移り住もうとするのだが、自由奔放で自分流の生き方を貫いている叔母の生活もそこに入ってみるとけっして完璧なものではなく、夫婦の関係は破局を迎え、また音楽学校受験についても強引に自分の考えを押しつけてくるというふうで次第に嫌気がさしてくるようになる。 
 そして結局は叔母とも衝突してしまうことになる。 
 こうした意見の衝突や行き違いといったものはいわば青春期の通過儀礼というものであろう。 
 ララも人並みにこうした経験を経た後にろう学校の教師をしている青年と知り合い恋に落ちることになる。 
 彼も同じく父親が聾唖者という家庭に育った青年で、お互い境遇が似ているということも手伝って急速に親しくなっていく。 
 そして彼からそれまでとは違った考えや環境を教えられることで新しい目が開かれていく。 
 こういうふうに彼女はさまざまな人間、さまざまな音楽、さまざまな世界と触れ合うことで次第に大人として成長し、それとともに父親を見る目も変わり始め、ひとりの人間として父親を理解するようになっていく。 
 またいっぽう思い悩む父親も自分の頑なな心を開き、娘の生き方を理解するための努力を始めるのである。 
 そのきっかけとなるのが妹クラリッサとのささやかな歩み寄りであった。 
 家の中にたたずむ父親と車に乗ったクラリッサのこの場面での手話による会話が素晴らしい。 
 なにげなく交わす会話が次第にお互いの心を溶きほぐしていく様子は心暖まる。 
 またこれと同様に印象深いのが雪について父と娘が語りあうシーンである。 
 雪の降る夜、窓辺で父が娘に「雪はどんな音がする?」と聞く。 
 すると娘は「雪は音がしない。雪はすべての音をのみこむ。雪が降り積もるとしんと静かになる」と答える。 
 父親はそれを聞くと「雪が降ると世界が沈黙する。すてきだ」と感嘆する。 
 この詩的な会話こそがまさにこの映画がもつ美しさを象徴しているように思われる。 
 ここからは家族の小さな争いもいつかは大きな何ものかに吸収されていき、静かな和解が訪れるといったふうな寓意が読みとれる。 
 これはまさにそうした「沈黙のかなた」へと旅立とうとする物語なのである。 
 美しい映像、そしてそこに流れるピアノやクラリネットの印象的な旋律が深く心をとらえて離さない。 
 また演じる俳優たちも素晴らしい。 
 とくに少女時代のララを演じるタティアーナ・トゥリープの無邪気な可愛らしさが印象的だ。 
 さらに成長したララを演じたシルビー・テステューの意志的な美しさも同様に印象に残る。 
 またララをなにくれとなく支えるクラリッサの元夫グレゴールの優しさ、ララと両親の間のクッション役をはたす小さな妹のいじらしい可愛さも印象深く、重要な存在だ。 
 父親役のハウィー・シーゴと母親役のエマニュエル・ラボリはともにほんとうの聾唖の俳優だそうだ。 
 34才の女性、カロリーヌ・リンクの初監督とは思えないような見事な傑作である。 
 爽やかな感動を味わった。 
  
 
製作総指揮 ヤーコブ・クラウセン/トーマス・ベプケ/ルギ・ヴァルトライトナー
監督 カロリーヌ・リンク 脚本 カロリーヌ・リンク、ベス・セルリン
撮影 ギャルノット・ロル 音楽 ニキ・ライザー 美術 スーザン・ビーリング
出演 タティアーナ・トゥリープ/シルビー・テステュー/ハウィー・シーゴ
エマニュエル・ラボリ/シビラ・キャノニカ/ハンザ・ツィピィヨンカ
 
 
 
 
 
 
 
7/21 ラストダンス
(96アメリカ)
 
 
 
 女死刑囚と彼女の刑の執行を停止させようとする青年の姿を描いた映画である。 
 シャロン・ストーンが死刑囚という難しい役を力演している。 
 役のためにいくらか減量したのではないかと思われる姿で、ノーメイクの素顔がさらに苦悩を深める効果を果たしている。 
 同様のテーマを扱った映画「デッドマン・ウォーキング」ではショーン・ペンが死刑囚に扮して鬼気迫る演技をみせていたが、それに比べると多少ソフトな印象にはなるが、しかしシャロン・ストーンもけっして負けてはいない。 
 難しい役に果敢に挑戦する彼女の心意気がじゅうぶんに伝わってくる。 
 ただし物語としてはいくぶん弱い部分が感じられるのが残念だ。 
 とくに恩赦課の新米弁護士が仕事をなげうってまでこだわる理由が「すべての人間が彼女を見放してしまったから」というだけでは説得力に欠けるように思われる。 
 もちろんそこには不正を見逃せないという正義感や無意識のうちに彼女によせる愛情といったものがあって、彼自身の過去の挫折が重なることで強いシンパシーが生まれてくるのだろうが、そこの描き込みがいまひとつ不足しているように思われるのだ。 
 この部分にもっと説得力をもたすことができたなら、さらに物語に深みが出せたのではないかと思えるだけに、いささか惜しまれるところである。 
  
 死刑の準備が刻一刻と進められていく場面は緊迫感がある。 
 「デッドマン・ウォーキング」と同様にここでの処刑方法も薬殺なのだが、その手順が克明に描かれていくにしたがって静かな緊張感に支配されていく。 
 まるで自分がその時間を待っているかのような重苦しい時間が流れていく。 
 人が人を裁くことの意味を深く問いかけてくる。 
  

 
監督 ブルース・ベレスフォード 脚本 ロン・コスロー
撮影 ピーター・ジェイムズ 音楽 マーク・アイシャム
出演 シャロン・ストーン/ロブ・モロー/ランディ・クエイド/ピーター・ギャラガー
ジェイン・ブロック/ジャック・トンプソン/パメラ・タイソン
 
 
 
 
 
 
 
7/24 鳩の翼
(97イギリス)
 
 
 
 この映画でまず特筆すべきは今世紀初頭のロンドンとヴェニスを再現した美術の見事さであろう。 
 古い地下鉄や自動車が走るエドワード朝ロンドンの美しい街並み、さらには上流階級の豪華かつ退廃的な生活、街全体が美術品ともいえるヴェニスの魅惑的な街並み、贅を凝らした衣装で行き交う人々の姿、夜の運河を漂う優雅なゴンドラの影、官能的な仮装カーニバル、と溜息の出るような贅沢さで時代の再現がなされている。 
 ヴィスコンティ映画の美術に負けない本物の重厚さが感じられる。 
 そしてこの見事な再現を背景に3人の男女のもつれた愛憎が描かれる。 
 原作はヘンリー・ジェイムズ。過去にはウィリアム・ワイラーが彼の原作で「女相続人」を撮っているが、この「鳩の翼」でも主人公のひとり、アメリカ人女性ミリーが莫大な遺産を相続しており、「女相続人」同様の財産を巡る男女のどす黒い駆け引きが行われる。 
  そのミリーを演じるのが「この森で天使はバスを降りた」で印象深かったアリソン・エリオットである。 
 さらに彼女と友情を暖めながらも一方では彼女を裏切り、そのことで愛の迷路に迷い込んでしまうという複雑な役どころを「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」「フランケンシュタイン」などのコスチューム・プレイでお馴染みのヘレナ・ボナム・カーターが演じている。 
 このふたりの女性から愛される貧しい新聞記者を演じるのが「司祭」のライナス・ローチである。知的で上品な二枚目を好演している。 
 刻々と揺れ動く三者三様の心理劇が見事である。 
 恋する男女の複雑な心情が繊細かつ感動的に描かれており、見ごたえがある。 
 脚本が「日蔭のふたり」のホセイン・アミニということで頷ける。 
 そして監督は秀作「バック・ビート」でデビューしたイアン・ソフトリー。 
 この映画で「バック・ビート」がビギナーズ・ラックでなかったということを証明してみせたといえよう。 
 というよりも、これほどの映画が撮れる才能を示したというべきか。 
 さらに衣装デザインは「オルランド」のサンディ・パウエル、(最近ではあの話題の「ベルベット・ゴールドマイン」の華麗な衣装もデザインしている)、美術は「未来世紀ブラジル」のジョン・バード、撮影がパトリス・ルコント映画でお馴染みのエドゥアルド・セラといった豊かな才能が支えているのである。 
 見ごたえ十分な文芸作品である。 
  

 
製作 デイヴィッド・パーフィット/スティーヴン・エヴァンズ 監督 イアン・ソフトリー
脚本 ホセイン・アミニ 原作 ヘンリー・ジェイムズ 撮影 エドゥアルド・セラ
音楽 エド・シアーマー 美術 ジョン・バード 衣装 サンディ・パウエル
出演 ヘレナ・ボナム・カーター/アリソン・エリオット/ライナス・ローチ/シャーロット・ランプリング
エリザベス・マクガヴァン/マイケル・ガンボン/アレックス・ジェニングス
 
 
 
 
 
 
 
7/26 パーフェクトサークル
(97ボスニア/フランス)
 
 
 
 戦争の犠牲になるのはいつも子供や女性や老人といった社会的な弱者だということは常々言われていることではあるが、この映画を観るとそのことをいまさらながら痛感させられる。 
 社会主義国ユーゴスラビアが解体し、ボスニア・ヘルツェゴビナに内戦が起きたのは1992年のことだが、その紛争と同時進行でこの映画の構想が練られていった。 
 戦火に荒れるサラエボの市民生活から取材をし、そこで拾ったさまざまなエピソードを取り込みながらシナリオが書かれていった。 
 1996年、紛争は終結し、破壊され無残な姿を見せる瓦礫のサラエボ市内での撮影が始まった。 
 本物のサラエボの街並みを背景に、実際にあった生活を再現するかのような撮影が行われていった。 
 こうして撮影された画面からは直接的な生々しさやリアリティといったものが伝わってくる。 
 それがこの映画の大きな力になっておりストレートにこちらの胸に響いてくる。 
 さらに家も両親も失った幼い兄弟が主人公という設定も同様に強く胸を打つ。 
 冒頭に兄弟たちの村をセルビア人の兵士が襲撃する場面が出てくるが、たんたんと撮されるこの場面の衝撃はまさに戦争のもつ狂気がなにげない日常と紙一重のところに存在しているのだということを示している。 
 寝静まった朝の情景が一瞬にして血塗られた情景に変えられていく凄まじさは戦争がもつ有無を言わせぬ非情さである。 
 襲撃を辛くも逃れた兄弟は叔母さんを頼ってサラエボ入りするのだが、行方が知れず、変わりに初老の詩人と出会い、彼の助けを借りて生活するようになる。 
 さらに銃弾に傷ついた犬を助けたことから3人と1匹の共同生活が始まるのである。 
 兄弟の兄は口がきけず、弟は戦争への恐怖から7才の今でもオネショをするといったふうで、どちらも心に深い傷を負っている。 
 また詩人も生きる意欲をなくし、常に自殺の誘惑に駆られているといったふうなのである。 
 それぞれに生きる苦しみと辛さを抱え持った者同士がともに生きていくことで次第に家族のような愛情を感じるようになっていく。 
 そして互いが支え合うことによって戦争という厳しい現実を生きていく力が生まれてくるのである。 
 こうした話に隣人たちの生活風景を絡めることで戦争の中での市民のさまざまな貌が描かれる。 
 これは物語であると同時に時代を写し取ったリアルな記録でもあるということだ。 
 

 
監督・脚本 アデミル・ケノヴィッチ 脚本 アブドゥラフ・シドラン
撮影 ミレンコ・ウヘルカ 音楽 エサド・アルナウタリッチ/ランコ・リフトマン
出演 ムスタファ・ナダレヴィッチ/アルメディン・レレタ/アルミル・ポドゴリッツア
ヨシブ・ベヤコヴィッチ/ヤスナ・ディクリッチ/ミレラ・ランビッチ
 
 
 
 
 
 
7/27 卓球温泉
(98日本)
 
 
  
 伊丹十三監督に始まり、周防正行監督へと続いていく「ハウツー物」路線を継承した映画である。 
 世間的には「暗い」「ダサイ」と言われている世界に光を当てて、それを面白おかしく描くことでそれまでのマイナスイメージを払拭し、そこに生きる人々の等身大の人生をそこはかとないペーソスで描くというのがこの路線の映画である。 
 監督の山川元は伊丹十三、周防正行の助監督を努めていた人ということでこうした路線の映画は自家薬籠中のものということなのであろう。 
 無難な仕上がりのそこそこ楽しめる映画にはなっている。 
 ただしそれだけのことで、「Shall we ダンス?」のような着想の意外性とか新たな発見といったものは見あたらない。 
 無理矢理路線に合うものを探し出してなんとか映画に仕立てあげたというぐらいにしか見えないのである。 
 ドラマとしての盛り上がりもいまひとつ。 
 また卓球が魅力あるスポーツとして描き切れていないので、卓球による町おこしというのも眉唾にしか思えない。 
 結局イメージどおりの地味な映画になってしまったというところである。 
  
 
製作総指揮 徳間康快 監督・脚本 山川元
製作 加藤博之/漆戸靖治/大野茂/五十嵐一弘
撮影 喜久村徳章 音楽 岩代太郎
出演 松坂慶子/牧瀬里穂/蟹江敬三/大杉漣/ベンガル
桜井センリ/六平直政/左右田一平/久保明
 
 
 
 
 
 
 
7/30 隣人は静かに笑う
(98アメリカ)
 
 
  
 話に無理なところや納得のいかないところがあるものの強引にラストまで引っ張っていく力技はなかなかだ。 
 新しい隣人とのつきあいのなかで時折感じる些細な疑問が次第に大きな陰謀へとつながっていく展開はサスペンスにあふれている。よくできた話の部類に入る。 
 じわりじわりと恐怖感を盛り上げていく手腕も水準以上のものだ。 
 ただ最後のドンデン返しがいささか強引すぎる。アイデアとしては悪くはないが、よく考えてみると唐突すぎる。(それだからこそ意外性があるともいえるのだろうが。) 
 とはいえ現実に起きる事件のなかにもこの映画のように真実が闇に埋もれて事実とまったく違ったものになってしまうということがありうるだけに架空の物語とばかりはいえない切実さを孕んでいる。 
 一見平和そうに見える現代社会が抱え持っている得体の知れない不安が画面を通して伝わってくる。 
  
 
製作総指揮 トム・ローゼンバーグ/シガー・ジョン・シグバトソン/テッド・タネンボウム
製作 ピーター・サミュエルソン/トム・ゴーライ/マーク・サミュエルソン
監督 マーク・ペリントン 脚本 アーレン・クルーガー 撮影 ボビー・ブコウスキー
編集 コンラッド・バフ 美術 テレーズ・デブレ 音楽 アンジェロ・バラダメンティ
出演 ジェフ・ブリッジス/ティム・ロビンス/ジョーン・キューザック/ホープ・ディビス/ロバート・ゴセット
 
 
 
 
 
 
 
7/30 愛を乞うひと
(98日本)
 
 
 
 なかなかの力作で、間違いなく昨年度の日本映画を代表する作品である。 
 終戦後のどさくさから昭和30年代の高度成長期に至る時代を再現した美術が素晴らしい。 
 また原田美枝子が母親と娘の二役を演じる熱演も見ごたえがある。 
 その母親の時代と現在の娘の時代を同時進行で描いていく手法もそつがなく、ふたりの動と静ともいうべき生き方の違いの描き分けも鮮やかだ。 
 だがすべてが水準以上の出来であるはずのこの映画がなぜかいまひとつ心に響いてこないのだ。 
 評価の高い映画であるにも関わらず「幼児虐待」といった題材からついこの映画を敬して遠ざけていたのだが、やはりその点がひっかかってしまったようである。 
 おそらく「幼児虐待」という問題には正当な理由などは見つからないのだろう。 
 よく言われることだが、幼児を虐待する人間のほとんどが幼児期に虐待を受けた経験があるそうだ。 
 育ちや気質といったものに起因すると思われるこうした背景を監督は敢えて描かずに、ただそこにすでに存在ものとして物語を進めていく。 
 だが、私にすればそこのところがいちばんひっかかる。どうにも気になって仕方がない。 
 そこがもっと納得のいくものとして描かれていればさらに映画に没入できたのではなかろうか。 
 もちろんこうした行為に明快な理屈などはないにしろ、曖昧なものは曖昧なままに掘り下げる必要があったのではないかと考えている。 
 親の無償の愛、純粋な愛、そういった理想的な愛情に嘘臭いものを感じるようにその対極にあるこうした虐待の描き方にもリアルさが感じられないのである。 
 といったことから終始納得できないおぞましいものを見せつけられているという苦痛を感じながら映画を観ていたのである。 
  
 映画としてのレベルの高さとそこに感情移入していく度合いとは必ずしも一致しないのだ。 
 結局こういった題材の映画は私には苦手な部類の映画であるということだろう。 
  
 それにしても同じように虐待を受けたに違いない母親と娘の生き方を分けたものは何だったのだろう。 
  

 
製作 藤峰貞利/高井英幸/阿部忠道
監督 平山秀幸 原作 下田治美 脚本 鄭義信
撮影 柴崎幸三 編集 川島章正 美術 中澤克巳 音楽 千住明
出演 原田美枝子/中井貴一/野波麻帆/小日向文世/熊谷真美
國村隼/うじきつよし/小井沼愛/牛島ゆうき/浅川ちひろ/モロ師岡
 
 
 
 
 
 
 
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