2000年1月 NO.4
  
 
 MY NAME IS JOE
1/27  マイ・ネーム・イズ・ジョー

●監督:ケン・ローチ ●製作:レベッカ・オブライエン 
●脚本:ポール・ラヴァティ ●撮影:バリー・エイクロイド 
●美術:マーティン・ジョンソン ●音楽:ジョージ・フェントン 
●出演:ピーター・ミュラン/ルイーズ・グッドール/ゲイリー・ルイス 
 デヴィッド・マッケイ/アン・マリー・ケネディ/スコット・ハンナ/デヴィッド・ヘイマン 
  
1998年イギリス作品

 アルコール依存症を克服し、仲間と共に生きる失業者のジョー。 
 自分には家族もなく、財産もなく、ただジョーという名前があるだけだとうそぶきながらも、仲間とつくるサッカーチームの監督として陽気に明るく生きている。 
 そんな彼が福祉局のケースワーカーをしているセーラと知り合い、愛し合うようになっていく。 
 だがサッカー仲間のリアムが抱えるトラブルに巻き込まれたことからそのささやかな幸せにも影がさし始める。 
 ケン・ローチがこの映画でもいつもと変わらぬしみじみとしたタッチで市井に生きる人々の哀歓を描いている。 
 そして主人公のジョーのキャラクターもこれまでの作品の主人公たちに負けない愛すべきキャラクターになっている。 
 わけありの過去をもちながらも、今は精一杯に生きており、仲間に対する深い思いやりと優しさをもっている。 
 だがその人を思いやる気持ちが徒になり、次第に窮地に追いつめられていくことになる。 
 ジョーが気のいい人情家であるだけに、こうした展開がひとごととは思えなく、画面を見つめる目にも自然と力がこもってくる。 
 そしてケン・ローチの現実そのもののような映像がその気持ちをさらに増幅させていく。 
 こうしたリアルな映像を見ていると、次にどんなことが起きたとしてもけっして不思議ではないという気持ちにさせられる。 
 それだけに先の予測がつきにくく、不安な気持ちのままに、目は画面に釘付けにされてしまうのだ。 
 ケン・ローチの映画には本物の人生が存在し、本当に生きた人間たちそこにいる。 
 それだけにそこで展開される物語は切実で、映画が終わった後も深い余韻に包まれる。 
 人生の苦さ、やり切れなさ、そして人を愛することの素晴らしさを教えてくれるのだ。

 
 
 
HOMICIDE
1/27  殺人課

●監督・脚本:デビッド・マメット ●製作総指揮:ロン・ロゾルツ 
●製作:マイケル・ハウスマン/エドワード・R・プレスマン 
●撮影:ロジャー・ディーキンス ●音楽:エイリック・ジャーンス 
●出演:ジョー・マンテーニャ/ウィリアム・H・メイシー/ナタリア・ノグリッチ 
 ヴィング・レームズ/レベッカ・ピジョン/ヴィンセント・グァスタフェッロ 
  
1991年アメリカ映画

 先月観た「スパニッシュ・プリズナー」が面白かったので、デビッド・マメットの別な監督作品がなにかないかと探してみると、「殺人課」という作品があることがわかった。 
 デビッド・マメットは本来は脚本家として活躍していた人で、これまでにも「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「評決」「アンタッチャブル」「俺たちは天使じゃない」といった作品を書いており、クライム・ミステリーの得意な脚本家のようである。 
 この「殺人課」以前にも2本の監督作品があるようだが、いずれも日本未公開の作品である。 
 いずれにしても日本ではまだそれほど知られた監督ではなく、その作風からみてもどちらかといえばあまり目立たない地味めの監督ということになるのだろう。 
 この「殺人課」という作品も「スパニッシュ・プリズナー」同様、なかなか核心部分に入っていかず、謎めいた展開をしていくのだが、それについていけない人にとっては退屈としか思えないだろう。 
 しかしその謎めいた展開や暗くざらついたリアリティーはミステリー好きにとってはなかなか魅力に感じるところではある。 
 演じるのもジョー・マンテーニャやウィリアム・H・メイシーといった脇役専門の俳優たちで、こうしたセレクトも地味だが、わかる人にはわかるといった通好みのものである。 
 けっこういい感じで話は進んでいくが、残念ながら結末がいまひとつ切れ味に欠けている。 
 「スパニッシュ・プリズナー」で感じたような意外性や快感がいまひとつ感じられない。 
 ユダヤ人問題というわれわれ日本人には馴染みのない、ちょっと複雑な問題がベースにあるということも、いまひとつこの話をわかりにくくしているのかも知れない。

 
 
 
  SOPYONJE
1/29  風の丘を越えて〜西便制(ソピョンジェ)

 
●監督:イム・グォンテク ●原作:イ・チョンジュン 
●脚本:キム・ミョンゴン ●製作:イ・テウォン   
●撮影:チョン・イルソン ●音楽:キム・スチョル  ●美術:キム・ユジュン 
●出演:キム・ミョンゴン/オ・ジョンヘ/キム・ギュチョル/シン・セギル 
 アン・ビョンギョン/チェ・ドンジュン/チェ・ジョンウォン 
  
1993年作品

 韓国映画にはあまり馴染みがない。 
 というよりも、たとえ韓国映画が観たいと思っても、今の日本では韓国映画が上映されること自体が珍しく、そのためにほとんど観ることができないというのが現状である。 
 中国や香港、台湾といった他のアジア地域の映画は数多く輸入されているが、韓国映画のそれはほとんどゼロに近いといった状態である。 
 そうしたことを考えてみれば、馴染みがないというのも当然のことだろう。 
 そんな馴染みのない韓国映画だが、この「風の丘を越えて」という作品だけは例外的によく知られている。 
 数年前に韓国の代表的な映画として上映されて評判を呼んだ作品だ。 
 これまでにも雑誌などでは頻繁に取り上げられ、高い評価をされており、長く気にはなっていたのだが、残念ながら観る機会がなく、数ヶ月前に衛星放送で放映されたのを録画しておいたものを、今日ようやくにして観たというわけである。 
  
 韓国の芸能にパンソリという芸がある。 
 日本の芸能にたとえれば、浪曲と演歌をミックスしたようなものといったところであろうか。 
 韓国の民衆の心に深く根ざした伝統の芸であり、そのパンソリを糧として各地を流れ歩く旅芸人親子の生き様を描いたのがこの映画である。 
 韓国文化を語る際にしばしば引き合いに出される概念に「恨(ハン)」 という言葉があるが、それがこの映画の底を流れる大きなテーマのひとつになっている。 
 「恨(ハン)」とはいったいどういうものなのか、映画の中ではそれを主人公の言葉として次のように説明している。 
 「生涯を生きながら胸の中に幾重にも降り積もってしこりとなるものだ。生きることはハンを積み重ねることで、ハンを積み重ねることが生きるということだ」と。 
 簡単にいってしまえば生きることの苦しみや哀しみ、また歓びといったものであろうか。 
 いわば人生の言うに言えない醍醐味といったもの、人生の機微を表す概念が「恨(ハン)」という言葉に込められている。 
 そしてその「ハン」を歌から滲ませようとするのがこの映画で唄われる「西便制(ソピョンジェ)」という流派のパンソリである。 
  
 主人公は3人の父子。父ユボン(キム・ミョンゴン)はパンソリの名手だが、かつて所属していた有名劇団を破門され、今は旅芸人となってパンソリを唄っている。 
 彼は名手としての強い自尊心をもっている。しかし報われない境遇がその性格を複雑に屈折させており、まわりの人間からは煙たがられる存在だ。 
 だが旅芸人という辛い境遇を生きぬくためには、そんな頑固さこそが支えになっており、社会から見捨てられたような彼の存在がパンソリそのものの存在と次第に重なって見えてくる。 
 かつては民衆のなかに深く根ざしていたパンソリが今や時代の流れの中で次第に社会の片隅に追いやられ、忘れられた存在になりつつあるという状況が映画を観ているうちにわかってくる。 
 そしてその忘れられ、報われることの少ない芸能に命を懸けるということで「恨(ハン)」というもののありようをよりいっそう深く見せてくれるのである。 
 彼は養女ソンファ(オ・ジョンヘ)と義理の息子トンホ(キム・ギュチョル)にパンソリを厳しく教え、ふたりは次第に成長していくが、息子トンホはそんな生活に次第に疑問を感じるようになっていく。 
 そしてついには父親と激しく衝突し、ふたりのもとを離れてしまう。 
 だがそんな出来事があっても父親の芸にたいする態度は変わることはなく、娘ソンファの声がただ美しいというだけの域をなかなか越えないことに思い悩むあまり、薬(ブシ)を飲ませて彼女を失明させてしまうのだ。 
 それによって彼女の歌に「ハン」を植え込もうとする、まさに狂気ともいえるような芸に対する飽くなき探求である。 
 そして食べることもままならない貧窮を極めた生活がこうした話をさらに悲惨なものにするはずが、不思議とそうした印象は感じない。 
 むしろここまでのめり込む父親の執念とそれに応えようとする娘の熾烈な習練に逆に感動さえおぼえてしまうのだ。 
 だからこそこうした父親の行為に彼女が秘かに気づきながらも、心は父親を許しており、父親もまたそんな娘の心情をそれと知りつつ死の直前まで確かめようとはしないのだ。 
 こうなるとふたりの関係には、一種犯すべからざる神聖ささえ帯び始めるのである。 
 他人がとやかく言う余地のない高みにまで登りつめている。 
 まさに芸の殉教者としての境地にまで達してしまったかのようである。 
 こうして父親の最後の言葉、「恨に埋もれず,恨を超えろ」という極意にまでいつか彼女は到達することになるのである。 
 かつてあれほど嫌っていた生活が「妙に懐かしく」なり、また父や義姉のその後が思いやられ、ふたりの消息を探して各地を訪ね歩く弟が、うらぶれた田舎町の居酒屋で男と暮らす義姉を見つけだし、名乗らぬままに彼女の唄う「沈清歌」を聴いたとき、まさにそのことが明らかになる。 
 それはこれぞ絶唱と呼ぶにふさわしい歌声である。「恨に埋もれず,恨を超え」た歌がそこにある。 
 弟はそれを聴きながら涙を流す。義姉も同じく唄いながら涙を流す。 
 そして弟は知るのである。今や義姉は歌の殉教者となったことを。 
 もう自分の手の届くかつての義姉ではないということを。 
 それはある意味では現世の幸せや不幸といった次元を越えたところに存在する姿なのである。 
 おそらく彼は義姉の歌を聴くまでは、理不尽な父親の犠牲となった哀れな人間として彼女のことを考えていたに違いない。 
 そしてそんな姉を自分が救ってやらねばならないとの思いを強くもっていたことだろう。 
 だが歌を聴いたとたん彼はすべてを理解してしまうのだ。 
 自分の心配などまったくの杞憂にすぎなかったのだということを。 
 そしてそこまで到達してしまった彼女の姿に深く感動し、同時にそれを成し遂げた父親への深い尊敬と愛情を改めて感じることになる。 
 それによって彼の中には自然と父親に詫びる気持ちが湧いてきたのにちがいない。 
 こうして彼は弟と名乗らぬままに、義姉のもとを去るのである。 
 またソンファも弟のそんな心のうちを理解して、また再び旅立つことを決意するのである。 
 素晴らしい幕切れであり、言いようのない深い感動にとらわれる。 
 文句なしの傑作である。 
 あまり輸入されることのない韓国映画のなかにあって、この映画が上映されたことの意味がよくわかる。 
 これほどの傑作が韓国映画のなかにあるということは、韓国映画のレベルがかなり高い水準にあるということにちがいない。 
 このことによって韓国映画に対する認識を新たにさせられたのだ。 
  
 監督のイム・グォンテクはなみなみならぬ力量の持ち主だ。 
 また主役の父親と娘を演じたアン・ソンギとオ・ジョンヘの存在も強く印象に残る。 
 さらにこの映画のシナリオを書いたのが父親役のアン・ソンギということも注目すべき点である。 

 
 
 
 FESTIVAL
1/29  祝祭

 
●監督:イム・グォンテク ●原作:イ・チョンジュン 
●脚本:ユク・サンヒョ ●製作:イ・テウォン 
●撮影:パク・スンベ ●音楽:キム・スチョル 
●出演:アン・ソンギ/オ・ジョンヘ/ハン・ウンジン/チョン・ギョンスン 
 パク・スンテ/イ・グムジュ/キム・ギョンエ/ナム・ジョンヒ 
  
1996年作品

 「風の丘を越えて」のイム・グォンテク監督が「風の丘を越えて」に続いて撮った近作。 
 韓国伝統の葬式の一部始終を丁寧に追い、そこで繰り広げられる人間模様を笑いと涙でくるみながら描いた群衆劇。 
 主演は小栗康平監督の「眠る男」にも出演したアン・ソンギ。 
 「風の丘を越えて」の娘役で印象的だったオ・ジョンヘが共演しているが、最初はまったくイメージが違っているので、彼女だとはわからなかったが、映画が進んでいくうちにやっと同一人物だということがわかった。この映画の中でも彼女が一曲だけ唄う場面が出てくるが、そのシーンにいたってようやく彼女がオ・ジョンヘであるこということに気がついたのだ。 
  
 韓国の伝統的な葬式は3日3晩にわたって行われるというスケールの大きなものである。 
 その間、参列者たちは酒を飲み、博打をうち、歌を唄い、踊るという、まるでお祭りのような派手さで進行していく。人生の一大事業ともいうべき重要な行事である。 
 また死がすべての終わりではなく、これから生まれ変わるための新しい旅立ちだという韓国流の考え方がそこには流れており、死をただ嘆き悲しむだけではなく、慶んで送り出そうとする気持ちが同時にこめられている。 
 それによって家族の心が癒されるのだというのが韓国流葬式の基本姿勢のようである。 
 こうした死生観が主人公、アン・ソンギ演ずる小説家の書いたお伽噺が劇中劇として演じられることでわれわれ観客は知ることになる。 
 そして葬式を執り行う家族たちの思いや思惑が複雑に絡まり合いながら、様々な悲喜劇が繰り広げられていく。 
 こうした騒動の末、葬式最後の記念撮影にいたると、争いやぶつかり合いを越えた家族全員の笑顔によって締めくくられることになるのである。 
 この映画の題名が「祝祭」とつけられていることにまさに納得するのである。 

 
 
 
 
1/30  日本黒社会

●監督:三池崇史 ●脚本:龍 一朗 ●プロデューサー:木村 俊樹 
●製作:土川 勉 ●撮影:今泉 尚亮 ●編集:島村 泰司 
●音楽:遠藤 浩二 ●美術:石毛 朗 
●出演:北村一輝/李丹/柏谷享助/田口トモロヲ/大杉 漣/菅田 俊 
 哀川 翔/竹中直人/渡辺 哲/伊藤洋三郎/サムエル・ポップ・エニング 
  
1999年大映作品

 幼いときから虐められて育った中国残留孤児二世の不良少年が主役で、演ずるのがいま気になる俳優のひとり、北村一輝、そして監督がいまもっとも元気な三池崇史、どちらも今が旬の人ということで大いに期待したのだが、残念ながら期待はずれに終わった。 
 主人公が生きる下層の環境描写などには毒を含んだ荒々しさがあって、なかなかうまいなと思わせるものがあるが、物語がいまひとつ面白くなく、退屈させられた。 
 ところどころに面白くなりそうな気配はあるのだが、それ以上にはのびていかず、欲求不満のままで終わってしまった。いささか残念な気持ちである。

 
 
 
 
1/31  雨あがる

●監督:小泉堯史 ●脚本:黒澤明 ●原作:山本周五郎 
●製作:黒澤久雄/原正人 ●撮影:上田正治 ●撮影協力:斎藤孝雄 
●音楽:佐藤勝 ●美術:村木与四郎 ●衣裳:黒澤和子 
●出演:寺尾聰/宮崎淑子/三船史郎/原田美枝子/仲代達也/松村達雄 
 井川比佐志/吉岡 秀隆/檀ふみ/隆大介/下川辰平/加藤隆之 
  
1999年東宝、アッスミックエース作品

 黒澤明がシナリオの覚え書きに「見終って、晴々とした気持ちになる様な作品にすること」と書いたように、この映画はその意図を見事に果たしている。 
 原作は山本周五郎。 
 同様に浪人者を主人公にした作品に「椿三十郎」があるが、それも山本周五郎の原作である。 
 だが、そちらは原作から大きく離れて、黒澤明独自の世界を描いた作品になっていた。 
 しかし、こちら「雨あがる」のほうはより原作の持ち味に近い作品になっている。 
 なによりも主人公の描き方が大きく違っている。 
 いかにも人間的で、椿三十郎のスーパーマン的な強さとは対照的な強さで描かれている。 
 「椿三十郎」も当初の企画ではあれほどのスーパーマンではなく、むしろ今回の主人公に近いキャラクターとして書かれていたようだが、娯楽色をもっと強く打ち出すようにとの会社側の意向で書き直されることになったようだ。 
 そうしたことから、黒澤自身も当初に考えていたような形で再度映画化したいと考えていたのではなかろうか。 
 その実現が今回のシナリオ化につながっているように思うのだ。 
 その遺稿シナリオの映画化実現に向けて、長年黒澤映画を支えた黒澤組スタッフが総力をあげて結集している。 
 そしてできあがった映像は重厚で端正な、まさに黒澤映画そのものの映像である。 
 くりかえし黒澤明のもとで研きあげてきた映像はたとえ黒澤明本人がいなくとも見事に再現が可能なほどに各スタッフの身体に染み込んでいるということであろう。 
 さらにかつての黒澤作品に重なるようなシーンがいくつか登場してくるが、これは明らかに黒澤明への深い思いを込めたオマージュであろう。 
 雨にとじこめられた木賃宿での酒盛り場面は「どん底」や「赤ひげ」に登場する貧しい町人たちの姿を思わせるものだ。 
 また主人公、三沢伊兵衛が居合いの稽古や侍たちとの決闘をする森は黒澤映画にしばしば登場する場所でもある。 
 「羅生門」はもちろんのこと、「七人の侍」「蜘蛛巣城」など印象的な森はいくつもある。 
 そしてここでの森は「夢」のなかでの狐の嫁入りの森とそっくりだ。 
 そういえば、狐の嫁入りの場面も雨上がりではなかったか。 
 また街道沿いや森のなかに野の花がさりげなく咲いている場面も黒澤好みの風景だ。 
 さらに三沢伊兵衛のいでたちも「用心棒」や「椿三十郎」の三船敏郎演ずる浪人を彷彿とさせるものがある。 
 こんなふうにこの映画の中で黒澤的なものを探し求めるのも意外とおもしろい。 
  
 ここで特筆すべきはやはり主人公、三沢伊兵衛を演ずる寺尾聰のよさだろう。 
 剣の達人だがけっして強さを誇らず、むしろひたすら相手のことを思いやって恐縮してしまうというユニークな侍を寺尾聰がそのヌーボーとした持ち味を生かして飄々と演じている。 
 けっして強そうには見えないが、いざ剣をとると信じられないほどの強さを発揮する。 
 それを半年間けいこを積んだという見事な居合いで見せてくれるのだ。 
 どちらかといえば「七人の侍」で志村喬が演じた勘兵衛に近いものを感じさせる侍だ。 
 穏やかで、人に優しく、また人情や人生の機微に通じたところもある、そんな人物である。 
 そしてそんな夫を陰で支えるしっかり者の女房を宮崎淑子が凛とした佇まいで演じて、なかなかいい。 
 彼女が城の使者に対して言うセリフ、「何をしたかではなく何のためにしたかが重要」には思わず泣かされた。 
  
 こういった大監督を追悼するといった種類の映画には、とかくその名前の大きさの前につい力が入りすぎて散々な結果に陥るということがありがちなように思うのだが、この映画に関してはそういった心配は無用だったようだ。 
 黒澤明の名前に萎縮するということもなく、自分の分を十分にわきまえた作品づくりができている。 
 力まず、適当に力が抜けて、爽やかな印象を残す。 
 考えてみれば、晩年の黒澤明はこうした力の抜けた作品づくりを目指していたように思う。 
 だが、それは彼本来の持ち味とは違った方向のものだったようで、結局、どこまでいっても黒澤本来の力強い世界から離れることはなかったように思うのだ。 
 それはある意味では彼の宿命のようなものだったのかもしれない。 
 ところが彼の助監督を長年務めてきた小泉堯史監督が初監督作でこうやって力の抜けた作風の映画を撮っってしまったわけで、そういった意味では喜ばしいことである反面、皮肉なようにも感じてしまうのだ。 
 だが、とにかく見終わった後、雨がやんだ後のような晴れ晴れとした気分が残ったのであった。

 
 
 
 
 
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