映画監督・考(日本)
 
NO.5
 
 
 
小津安二郎の映画
 
 
 
 繰り返し観たくなる映画というのがある。 
 繰り返し観ても、飽きずに観られ、観るたびに新しい発見がある映画。 
 小津安二郎の映画はまさにそういう映画である。 
 好きな作品を何本かをあげると、 
 「東京物語」「一人息子」「父ありき」「長屋紳士録」「戸田家の兄妹」などがいい。 
 どれも親子の問題を描いた作品である。 
 「長屋紳士録」は捨て子を描いた作品だが、それでも、ある意味で親子を描いていると言えるだろう。 
 そして、「東京物語」を除いたすべてが戦前の作品である。 
 だから、これらの作品を封切り時に観たわけではない。出会ったのはここ数年のことである。そして、その数年のあいだに何度も繰り返し観ている。  
 たぶん、二十代の頃に出会っていたなら、これほどこだわることはなかったのではないかと思う。 
 なぜなら小津映画は大人の映画だからである。 
 大人は多くを語らない。必要なこと以外口にしない。いや、時には必要なことさえも口にしないことがある。 
 「言わぬが花」「秘するが花」というが、そういった姿勢である。 
 くどくど説明しないでも、わかる人にはわかるはずだ。とやかく言うのは野暮なことだ、といった風である。 
 しかし、だからといって何も独りよがりでわかりにくいわけではなく、むしろいたってシンプルでわかりやすい。 
 ほぼ全作品が小市民の家庭を描いており、これほど身近でわかりやすいテーマを生涯にわたって描き続けた監督も少ない。 
 この身近でわかりやすいテーマを理屈に流れることなく、あるがままに観客の前に披露する。 

 小津の映画を語るときに避けて通れないものに彼独自の表現方法であるローポジションというカメラアングルがある。 
 これは様々に論議され考察されている。畳を中心とした日本家屋を映し出すのに最適なポジションなのだとか、低い位置から家族の生活をじっくりと観察しているのだとか様々に言われている。 
 いずれにしても、このポジションは映画を観ている観客の視線を安定させるという特徴がある。 
 ちなみにローポジションの反対に頭上から映す俯瞰というポジションがあるが、これは普通われわれの日常生活には見られないアングルであり、心理的に不安定にさせる。 
 逆に低い位置から映すローポジションは安定感がある。この安定感のあるローポジションの画面が小津の完全主義によって隅々まで厳しく気を配られ、端正な映像に仕上げられており、それが物語のゆったりとした進行のリズムと融合して、他の作家にはない独特の世界を創りあげていく。 
 社会が変わろうと親子の問題は本質的にはほとんど変わることがない。 
 この変わらないテーマをローポジションというほとんど動くことのない同じ視点で撮り続けることで日常の微妙な変化を逃さずとらえていく。 
 繰り返し訪れる日常を冷徹に観測する視点として彼のカメラが存在する。 

 「人の世の不幸は家族になることに始まる」という言葉があるが、家族とは常にそんな不幸の芽をどこかに隠し持っている。 
 小津の映画にもこの不幸の芽が見え隠れしている。そして、それが次第に大きくなり、家族の崩壊という結末に向かってゆっくりと進んでいく。 
 われわれはそこに人生の深い味わいと哀感を感じる。 
 まさにゆったりと映画の世界に身を任せることで人生の一断面を心地よく味わわせてくれる。 
 決して声高に表現することなく、感情に身を任せるということもない。 
 批判も主張もしない。ただあるがままに過ぎていく日常を映し出すだけである。 
 しかし、そのあるがままと思えるものが実は現実には決してなく、まさにそれこそが小津独自の世界なのである。どこにもありそうに見えてどこにもない、そんな独自の作品世界がここにはある。  

 若いときは激しく主張するもの、大上段に構えた見かけの派手なものに目を奪われがちだが、歳とともにそういうものに胡散臭さを感じるようになってくる。 
 そして、逆に強く主張しない落ち着いたもの、伝統的なものの中に非常に深い意識や思想を感じるようになってきた。 
 そうすると今まで気づかずに見えなかったものが見えてくるようになってくる。 
 小津の作品はまさにそういう作品なのである。 

 
 
 
 
 
 
  小津映画の特徴と魅力 
 
 小津安二郎の映画はほとんどが家族の在り様を題材としたホームドラマであり、そのなかに日本的な人情や人生の機微や哀歓を表現しようとしたものである。 
 そしてそれを争いや対立といった形で見せるのではなく、あくまでも落ち着いた調和のなかに見いだそうとした。 
 小津安二郎にとってなによりも重要なことは安定と調和であって、静かで落ち着いた佇まいのなかに美を作り出そうとしたのである。 
 ここから彼独特の様式的なスタイルが生まれてくる。 
 そのスタイルはすべてこうした精神に奉仕するためのもので、これによって他の何ものでもない小津安二郎独自の映像世界ができあがる。 
 ここではそうした独自のスタイルのいくつかを紹介しながらその魅力を考えてみたい。 

<ロー・ポジション> 
 
 小津映画の特徴の第一としてあげられるのが「ロー・ポジション」というカメラ・アングルである。 
 これは「子供の見た目」として使われたのがそもそもの始まりではないかと言われている。 
 小津映画には子供が登場することが多い。 
 特にサイレント期には子供がたびたび登場し、彼らの視線を通して家族の姿を見るということが試みられている。 
 こうした視点が発展していくことで今日言われるところの小津独特のロー・ポジションが生まれたのである。 
 そして今日では小津映画の主要舞台となる日本家屋をもっとも美しく撮るためのポジションというのが定説になっている。 
 畳に座った人物たちをもっとも安定した構図のなかで捉える最適のポジションがこの低い位置からのカメラ・アングルというわけだ。 
 事実、ロー・ポジションによって撮された日本間の幾何学的な美しさは比類のないもので、なるほどと思わせられる。 
 だがこの他にも観客席から舞台を観る視点としてのポジションだという説もある。 
 観客が舞台を見上げるような視線で物語を見せていくアングルというわけである。 
 また小津自身の言葉としてただ一言「好きだから」と言ったという話も残されている。 
 いずれにしろこのカメラアングルが小津映画の最大の特徴であることは間違いない。 
  
<カメラの固定と標準レンズ> 
  
 ロー・アングルに据えたカメラは常に固定されて動かない。 
 これは構図を重要視するという考えからくるものでカメラの移動によって構図が変化することを嫌ったためである。 
 ただ時には移動撮影が使われるということもあったが、その時には構図が変化しないように工夫を凝らす。 
 そして移動撮影があたかも静止したショットに見えるうような画面を作り出す。 
   
  さらにロー・アングルに据えたカメラのレンズは常に標準レンズを使用。 
 これも望遠や広角を使うことで生じる不自然な印象を嫌ったためで、小津監督はどこまでも秩序ある安定した映像を求めるのである。 
  
<カットつなぎ> 
  
 小津の映画ではショットとショットのつなぎはほとんどがカットによるつなぎであり、オーバーラップ、フェード・イン、アウトといったテクニックはいっさい使わない。 
  これも構図やリズムが乱れることを嫌ったためである。 
 小津はこうしたテクニックを「ごまかしの技術」として切り捨てている。 
 ところでこれらのテクニックは、かっては時間の経過や場所の移動を表す際には必ず使われたテクニックで、シークエンスとシークエンスの幕のような役割として使われることが多かった。 
 こうしたテクニックを使わない小津映画ではこれに代わる方法が必要になってくる。 
 そこで考え出されたのがいわゆる「カーテン・ショット」と呼ばれる技法であった。 

<カーテン・ショット> 
  
 小津映画にはシーンとシーンの間やシークエンスとシークエンスの間に必ず風景のショットや場所を説明するようなショットがはさみこまれている。 
 これを「カーテン・ショット」と呼んでいる。 
 このショットに時間経過や場面転換をスムーズに行う機能をもたせたのである。 
 このショットにはさまざまな実景が使われたが、よく目にするものとしては風に揺れる洗濯物のショットや煙がたなびく煙突のショットなどがあげられる。 
 こうしたところにも小津らしいこだわりを見ることができる。 
 そしてこのショットが同時に小津映画独特のゆったりとしたリズムを生み出すための重要な役割も果たしている。 
  

  
<左のショットには洗濯物が、右のショットには相似形のビンが見える>
  
  
<快風快晴> 
  
 小津の映画は全編を通して晴れている。 
 けっして雨が降ったり嵐が来たりはしない。(例外的に「浮草」にだけは激しい雨の降るシーンがあるが。) 
 外は常に穏やかに晴れ上がり、心地の良い風が吹いている。 
 煙突の煙がたなびき、洗濯物がのんびりと風に揺れている。 
 それが小津映画の変わらぬ自然現象である。 
 まさに「世はすべて事もなし」といった風情である。 
 ここでも天候は安定と調和を指向している。 
 そしてこうした穏やかな天候を背景に穏やかな日常の物語が何事もなくが展開されていく。 
 これについての小津の言葉。 
 「いくら画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、そのとき空は青空で、陽が燦々と照り輝いていることもあるだろう。これと同じで、私の映画でも何が起ころうと、いつもいい天気であってほしいのだ。」 

<正面向きのショット> 
  
 これも小津映画の大きな特徴となるショットであり、構図優先の小津らしいショットといえる。 
 話し合っている人物をカットバックによって撮し出す場合、ふつうは一方を左ななめ前から撮るとすると、逆側は右斜め前から撮り、さらに話している人物それぞれの視線が十字に交差するように撮るというのがセオリーである。 
 相対する人物の視線を結んだ線をイマジナリー・ラインと呼ぶが、人物を交互に撮す場合にはカメラはこのラインを越えてはならないとする映画文法が存在する。 
 この文法を守ることでお互いがあたかも相手の視線を見ながら話しているような画面ができあがる。 
 しかし小津の映画における人物はこのようには撮らない。 
 ほとんどがカメラに向かって正面に近い角度でセリフをしゃべる。 
 それはまるで一枚の肖像写真を撮るかのような端正なショットである。 
 そして当然人物同士の視線が一致しないという現象が現れてくるのだが、小津はそうしたことを無視して構図優先の画面を作り上げる。 
 この撮影法について小津は次のように述べている。 
 「私がこのような違法を敢えてやってみた最初の出発は、日本間における人物と背景との関連において、その場の感情と雰囲気を自由に表現するためには、この常識に従っているとどうにもあがきがとれなかったことから始まったのであった。 
 日本間に人物の座る位置というものはほとんど決まっている上に、広くともそれが十畳位のものであってみればその中でカメラの動く範囲はまことに窮屈であり、しかもこの文法に従うとなればあるひとりの人物の背景は床の間だけであり、もうひとりの人物の背景はまた襖とか、あるいは縁側とかにきまってしまう。それでは私の狙っているその場面の雰囲気がどうにも表現できない。そうしたことから試みたのっぴきならない違法であったが、やってみるとそれが文法でなかったということを知ったのである。」 
 さらにこのショットのほとんどすべてがバスト・ショットもしくはウエスト・ショットあるいはフル・ショットで撮られており、クローズ・アップで撮られることはない。 
 これもクローズ・アップによる観客の感情移入やリズムの乱れを避けようとしたためである。 
 クローズ・アップというショットは表情の微妙な変化を逃さず捕らえるショットである。 
 そうしたことから感情表現を行う際には必ず使われるショットといわれている。 
 強い感情を表現することを好まない小津としては当然これは必要のないショットになってくる。 
 そうした押しつけがましい表現は小津の美意識が許さない。 
 あくまでも感情を表面に表さない静かで穏やかな画面を目指すのが小津流なのである。 
 ここにも安定と調和を求める小津の映画作法が読みとれる。 
 このような様式的な撮影方法によって一般的なリアリズムとは違った小津独自の映像空間が現出してくるわけで、一見現実的に見える映像が注意深く見るときわめて人工的であるという小津の独創性が見えてくる。 
  

<正面向きのショット>
  
<連続した時間の流れ> 
  
 小津の映画におけるシーンの流れはすべて現実の時間と同じように流れており、時間が短縮されたり、逆に長くなったりということがない。 
 あくまでも人物が動く現実の時間通りに画面は進んでいく。 
 例えば人物が部屋から部屋へ移動するとき、それに要する時間を正確に再現する。 
 たとえそれがカットによって別なショットにつながれる場合でもその間の時間が省略されるということがない。 
 多くのショットで構成されたワンシーンがあたかもワンカットの長回しで撮られているかのような時間の流れになっている。 
 このような現実の時間の正確な再現をすることで日常の生活と同じリズムが生まれ、あたかも日常生活をそのまま見ているかのような錯覚を起こさせる。 
 ここから小津映画独特のゆったりとした心地よい時間の流れが出来上がっていく。 
 ホーム・ドラマを主な題材にしている小津映画にとってこうした配慮は必要不可欠なものに違いない。 

<相似形の構図> 
  
 小津の映画には同一画面のなかに同じ様な形をした物や人物が並ぶという相似形の構図がさかんに登場してくる。 
 たとえば日本間で同じ方向を同じような姿勢で座った人物が繰り返し撮される。 
 また物の場合でいえば煙突などはその単的な例である。 
 数本の煙突が並んで煙を吹きだしているようなショットが繰り返し登場してくる。 
 さらに注意して見ていけばこの他にもさまざまな相似形を発見することができるのだ。 
 こうした相似形のショットが意味するところはやはり安定であり、調和である。 
 同じ形のものが並ぶことによる整然とした印象。 
 さらにそれが繰り返されることによって生じる安心という心理的効果。 
 そしてそれがいったん崩れたときには不安や欠落の感覚が効果的に深くなる。 
 こうしたことを形や佇まいによって見せていくところが小津映画の独自性といえよう。 
  
  

    
<さまざまな相似形> 
  
<反復> 
  
 小津の映画ではさまざまなものが反復や繰り返しをするのが特徴である。 
 それはセリフ、動作、ショット、テーマ、モチーフなどと多岐にわたっている。 
 たとえばセリフの場合だと、「いいよ、いいんだ、いいんだよ」「凄いな、凄い凄い」といったふうな同じ言葉の繰り返し。また「そうかね、そんなものかね」「そうよ、そうなのよ」「ふーむ、やっぱりそうかい」といったオウム返しのようなセリフのやりとり。 
 こうした単純な繰り返しが心地よいリズムを生み、小津的世界を構築する要素となっていく。 
 また動作の反復の例をあげるとすれば、「父ありき」の有名な渓流釣りのシーンがあげられる。 
 父と息子が流し釣りをしながらこれからの生活について話をするというシーン。 
 相似形に立ったふたりがまったく同じタイミングで針を投げ入れては流すという動作を繰り返す。 
 さらに映画の後半で成長した息子が父親と久しぶりで再会し、かってと同じように釣りをするという場面が現れる。 
 ここでも先のシーンと同じようにふたりいっしょに針を投げ入れるという動作を繰り返す。 
 こうした相似形と動作の反復から感じられるのは父と息子の幸せな関係である。 
 諸事情から父と別れて暮らさなければならなかった息子の父を慕う気持ちと敬いがこうした<かたち>のシーンから痛いほど伝わってくる。 
 そして同じシーンを繰り返すことで長い時間を経た後も父と子の幸せな関係が変わらず続いているといったことも伝わってくるのである。 
 
 
 また別な例では、「東京物語」での老夫婦の相似形の反復があげられる。 
 映画の始まりがまさにふたりが同じ姿勢、同じ方向を向いて旅行の準備をするシーンから始まっている。 
 そしてこの相似形が映画のなかで繰り返し見せられる。 
 こうした反復によってわれわれ観客は自然とそれをあるべき形として受け入れていく。 
 そして時間の経過にともなってそのあるべき形が崩れ始めると急に深い欠落感に支配されていく。 
 繰り返し見せられることであるべき形として受け入れたはずのものが、不意に崩れることで生じる不在の意識。 
 反復の効果とずれの効果。こうしたものが形を通じて見事に伝わってくる。 
  
  
  
<はじめにあった妻の姿が失われている。>
  
  
 つぎにショットの反復についてである。 
 小津の映画では同じ場所を撮るときは常に同じカメラ・ポジションから撮るのが通例だ。 
 その場所に舞台が移動するたびに前に見た場面と同じサイズ、同じ構図のショットが繰り返される。 
 こうした反復によってそのショットはより安定感を増していく。 
 ここにも統一と安定を指向した小津の一貫した姿勢が見られる。 
 さらにテーマやモチーフの反復にいたってはいわずもがなであろう。 
 生涯にわたってホームドラマを撮り続け、ドラマの内容自体も似たような話を何度も繰り返し撮っている。 
 たとえば「晩春」「麦秋」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」などはすべて娘の結婚の話である。 
 また違った物語に同じ名前の主人公を登場させた戦前の「喜八もの」や戦後の「周吉(ときに周平)もの」などもこうした繰り返しの部類のものであろう。 
 さらにいえば「晩春」「麦秋」「東京物語」の原節子の役名もすべて「紀子」であってこれもまたこうした繰り返しの一連といえよう。 
 さらに同じ俳優、同じスタッフを繰り返し使うということもあげなければならないだろう。 
 こうして同じことを繰り返すことで次第に夾雑物が削ぎ落とされていき、世界はますます強固なものになっていく。 
 こうやってどこにでもあるような平凡な話が芸術の高みへと昇華されていく。 
 だがそうした繰り返し、同じ様な話を同じ様な手法でくりかえし撮るという姿勢が時として批判の対象にされたのも事実である。 
 「単調で退屈」「起伏に乏しい」「10年一日のごとく同じ様な映画ばかりを作っている」等々。 
 そしてそんな批判に対する小津の反応はアフォリズムの得意な小津らしい「豆腐屋は豆腐しか作れない」であった。 
  
<連綿と続く人生> 
  
 映画的テクニックを使わず、劇的表現も行わず、削ぎ落とせるものはどんどんと削ぎ落として単純化していく。 
 結局こうした表現方法をとることで小津安二郎監督はありふれた生活のなかから見えてくる本物の人生を描こうとしたのである。 
 人生とは単純な日常の繰り返しである。 
 人は生まれ、学び、成長し、人を愛し、家庭を持ち、老い、死んでいく。 
 そしてこうした生活は同じように子に引き継がれて連綿と続いていく。 
 まさに小津のよく言う「輪廻の世界」を描こうとした。 
 それが動きの少ない、静かな、同じ事を繰り返すという小津独特の単純化された手法を生み出したわけである。 
 いわば小津の作品すべてがひとつの人生を表しているともいえるのだ。 
 作品相互がお互いを補完しあい、ひとつの作品では生み出し得ない連綿と続く人生というものを作品全体で表していこうとする意思がうかがえる。 
 「俳優も毎年同じ俳優を使い、家の構造やセットなども同じにこしらえて、そして年々の写真を比較してみると、いろんな点で面白い」 
 こうした小津の言葉が示すように、小津の映画はまさに同じ位置から同じものを繰り返し見続ける「定点観測」の映画なのである。 
 特別な事件も争いも起こらず、何事もなく静かに過ぎていく時間。 
 しかし、そこにじっと目を凝らしていくと人生の様々なドラマが隠されていることに気づく。 
 描かず、隠し、それでも見えてくる人生の深い真実がその画面の底から浮かびあがってくることになるのである。 
 
 
 
主要作品
 
生まれてはみたけれど(32)
一人息子(36)
戸田家の兄妹(41)
父ありき(42)
長屋紳士録(47)
風の中の牝鶏(48)
晩春(49)
宗方姉妹(50)
麦秋(51)
お茶漬けの味(52)
東京物語(53)
早春(56)
東京暮色(57)
彼岸花(58)
浮草(59)
お早よう(59)
秋日和(60)
小早川家の秋(61)
秋刀魚の味(62)
 
 
 
 
小津作品集
 
 

 
 
 
監督INDEX
監督NO.4 山田洋次
監督NO.6 鈴木清順
 
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