繰り返し観たくなる映画というのがある。
繰り返し観ても、飽きずに観られ、観るたびに新しい発見がある映画。 小津安二郎の映画はまさにそういう映画である。 好きな作品を何本かをあげると、 「東京物語」「一人息子」「父ありき」「長屋紳士録」「戸田家の兄妹」などがいい。 どれも親子の問題を描いた作品である。 「長屋紳士録」は捨て子を描いた作品だが、それでも、ある意味で親子を描いていると言えるだろう。 そして、「東京物語」を除いたすべてが戦前の作品である。 だから、これらの作品を封切り時に観たわけではない。出会ったのはここ数年のことである。そして、その数年のあいだに何度も繰り返し観ている。 たぶん、二十代の頃に出会っていたなら、これほどこだわることはなかったのではないかと思う。 なぜなら小津映画は大人の映画だからである。 大人は多くを語らない。必要なこと以外口にしない。いや、時には必要なことさえも口にしないことがある。 「言わぬが花」「秘するが花」というが、そういった姿勢である。 くどくど説明しないでも、わかる人にはわかるはずだ。とやかく言うのは野暮なことだ、といった風である。 しかし、だからといって何も独りよがりでわかりにくいわけではなく、むしろいたってシンプルでわかりやすい。 ほぼ全作品が小市民の家庭を描いており、これほど身近でわかりやすいテーマを生涯にわたって描き続けた監督も少ない。 この身近でわかりやすいテーマを理屈に流れることなく、あるがままに観客の前に披露する。 小津の映画を語るときに避けて通れないものに彼独自の表現方法であるローポジションというカメラアングルがある。
「人の世の不幸は家族になることに始まる」という言葉があるが、家族とは常にそんな不幸の芽をどこかに隠し持っている。
若いときは激しく主張するもの、大上段に構えた見かけの派手なものに目を奪われがちだが、歳とともにそういうものに胡散臭さを感じるようになってくる。
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小津映画の特徴と魅力
小津安二郎の映画はほとんどが家族の在り様を題材としたホームドラマであり、そのなかに日本的な人情や人生の機微や哀歓を表現しようとしたものである。 そしてそれを争いや対立といった形で見せるのではなく、あくまでも落ち着いた調和のなかに見いだそうとした。 小津安二郎にとってなによりも重要なことは安定と調和であって、静かで落ち着いた佇まいのなかに美を作り出そうとしたのである。 ここから彼独特の様式的なスタイルが生まれてくる。 そのスタイルはすべてこうした精神に奉仕するためのもので、これによって他の何ものでもない小津安二郎独自の映像世界ができあがる。 ここではそうした独自のスタイルのいくつかを紹介しながらその魅力を考えてみたい。 <ロー・ポジション>
<カーテン・ショット>
<快風快晴> 小津の映画は全編を通して晴れている。 けっして雨が降ったり嵐が来たりはしない。(例外的に「浮草」にだけは激しい雨の降るシーンがあるが。) 外は常に穏やかに晴れ上がり、心地の良い風が吹いている。 煙突の煙がたなびき、洗濯物がのんびりと風に揺れている。 それが小津映画の変わらぬ自然現象である。 まさに「世はすべて事もなし」といった風情である。 ここでも天候は安定と調和を指向している。 そしてこうした穏やかな天候を背景に穏やかな日常の物語が何事もなくが展開されていく。 これについての小津の言葉。 「いくら画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、そのとき空は青空で、陽が燦々と照り輝いていることもあるだろう。これと同じで、私の映画でも何が起ころうと、いつもいい天気であってほしいのだ。」 <正面向きのショット>
<連続した時間の流れ> 小津の映画におけるシーンの流れはすべて現実の時間と同じように流れており、時間が短縮されたり、逆に長くなったりということがない。 あくまでも人物が動く現実の時間通りに画面は進んでいく。 例えば人物が部屋から部屋へ移動するとき、それに要する時間を正確に再現する。 たとえそれがカットによって別なショットにつながれる場合でもその間の時間が省略されるということがない。 多くのショットで構成されたワンシーンがあたかもワンカットの長回しで撮られているかのような時間の流れになっている。 このような現実の時間の正確な再現をすることで日常の生活と同じリズムが生まれ、あたかも日常生活をそのまま見ているかのような錯覚を起こさせる。 ここから小津映画独特のゆったりとした心地よい時間の流れが出来上がっていく。 ホーム・ドラマを主な題材にしている小津映画にとってこうした配慮は必要不可欠なものに違いない。 <相似形の構図>
<反復> 小津の映画ではさまざまなものが反復や繰り返しをするのが特徴である。 それはセリフ、動作、ショット、テーマ、モチーフなどと多岐にわたっている。 たとえばセリフの場合だと、「いいよ、いいんだ、いいんだよ」「凄いな、凄い凄い」といったふうな同じ言葉の繰り返し。また「そうかね、そんなものかね」「そうよ、そうなのよ」「ふーむ、やっぱりそうかい」といったオウム返しのようなセリフのやりとり。 こうした単純な繰り返しが心地よいリズムを生み、小津的世界を構築する要素となっていく。 また動作の反復の例をあげるとすれば、「父ありき」の有名な渓流釣りのシーンがあげられる。 父と息子が流し釣りをしながらこれからの生活について話をするというシーン。 相似形に立ったふたりがまったく同じタイミングで針を投げ入れては流すという動作を繰り返す。 さらに映画の後半で成長した息子が父親と久しぶりで再会し、かってと同じように釣りをするという場面が現れる。 ここでも先のシーンと同じようにふたりいっしょに針を投げ入れるという動作を繰り返す。 こうした相似形と動作の反復から感じられるのは父と息子の幸せな関係である。 諸事情から父と別れて暮らさなければならなかった息子の父を慕う気持ちと敬いがこうした<かたち>のシーンから痛いほど伝わってくる。 そして同じシーンを繰り返すことで長い時間を経た後も父と子の幸せな関係が変わらず続いているといったことも伝わってくるのである。 また別な例では、「東京物語」での老夫婦の相似形の反復があげられる。 映画の始まりがまさにふたりが同じ姿勢、同じ方向を向いて旅行の準備をするシーンから始まっている。 そしてこの相似形が映画のなかで繰り返し見せられる。 こうした反復によってわれわれ観客は自然とそれをあるべき形として受け入れていく。 そして時間の経過にともなってそのあるべき形が崩れ始めると急に深い欠落感に支配されていく。 繰り返し見せられることであるべき形として受け入れたはずのものが、不意に崩れることで生じる不在の意識。 反復の効果とずれの効果。こうしたものが形を通じて見事に伝わってくる。 つぎにショットの反復についてである。 小津の映画では同じ場所を撮るときは常に同じカメラ・ポジションから撮るのが通例だ。 その場所に舞台が移動するたびに前に見た場面と同じサイズ、同じ構図のショットが繰り返される。 こうした反復によってそのショットはより安定感を増していく。 ここにも統一と安定を指向した小津の一貫した姿勢が見られる。 さらにテーマやモチーフの反復にいたってはいわずもがなであろう。 生涯にわたってホームドラマを撮り続け、ドラマの内容自体も似たような話を何度も繰り返し撮っている。 たとえば「晩春」「麦秋」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」などはすべて娘の結婚の話である。 また違った物語に同じ名前の主人公を登場させた戦前の「喜八もの」や戦後の「周吉(ときに周平)もの」などもこうした繰り返しの部類のものであろう。 さらにいえば「晩春」「麦秋」「東京物語」の原節子の役名もすべて「紀子」であってこれもまたこうした繰り返しの一連といえよう。 さらに同じ俳優、同じスタッフを繰り返し使うということもあげなければならないだろう。 こうして同じことを繰り返すことで次第に夾雑物が削ぎ落とされていき、世界はますます強固なものになっていく。 こうやってどこにでもあるような平凡な話が芸術の高みへと昇華されていく。 だがそうした繰り返し、同じ様な話を同じ様な手法でくりかえし撮るという姿勢が時として批判の対象にされたのも事実である。 「単調で退屈」「起伏に乏しい」「10年一日のごとく同じ様な映画ばかりを作っている」等々。 そしてそんな批判に対する小津の反応はアフォリズムの得意な小津らしい「豆腐屋は豆腐しか作れない」であった。 <連綿と続く人生> 映画的テクニックを使わず、劇的表現も行わず、削ぎ落とせるものはどんどんと削ぎ落として単純化していく。 結局こうした表現方法をとることで小津安二郎監督はありふれた生活のなかから見えてくる本物の人生を描こうとしたのである。 人生とは単純な日常の繰り返しである。 人は生まれ、学び、成長し、人を愛し、家庭を持ち、老い、死んでいく。 そしてこうした生活は同じように子に引き継がれて連綿と続いていく。 まさに小津のよく言う「輪廻の世界」を描こうとした。 それが動きの少ない、静かな、同じ事を繰り返すという小津独特の単純化された手法を生み出したわけである。 いわば小津の作品すべてがひとつの人生を表しているともいえるのだ。 作品相互がお互いを補完しあい、ひとつの作品では生み出し得ない連綿と続く人生というものを作品全体で表していこうとする意思がうかがえる。 「俳優も毎年同じ俳優を使い、家の構造やセットなども同じにこしらえて、そして年々の写真を比較してみると、いろんな点で面白い」 こうした小津の言葉が示すように、小津の映画はまさに同じ位置から同じものを繰り返し見続ける「定点観測」の映画なのである。 特別な事件も争いも起こらず、何事もなく静かに過ぎていく時間。 しかし、そこにじっと目を凝らしていくと人生の様々なドラマが隠されていることに気づく。 描かず、隠し、それでも見えてくる人生の深い真実がその画面の底から浮かびあがってくることになるのである。 |
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