黒澤明の映画は男の映画である。
登場する主要な人物はほとんどが男で占められ、その男同士の関係を描いたものが多い。 それは時には男同士の闘いであり、友情であり、師弟の関係であり、男と男のぶつかり合いである。
例えば、デビュー作の「姿三四郎」では主人公、姿三四郎(藤田進)と師、矢野正五郎(大河内伝次郎)の師弟の関係であり、三四郎と檜垣源之助(月形龍之介)の闘いである。
また、「酔いどれ天使」の、やくざの松永(三船敏郎)と医師、真田(志村喬)の関係は医者と患者という立場以上に、父性を持った年長の者とそれを慕う孤独な若者といったある意味での師弟の要素を持った関係であり、「七人の侍」の菊千代(三船敏郎)と勘兵衛(志村喬)、また同じく勝四郎(木村功)と勘兵衛の師弟関係や、「赤ひげ」の新出去定(三船敏郎)と保本登(加山雄三)の師弟関係にも重なってくるものである。
そのほかにも「野良犬」の年輩の刑事(志村喬)と新任の若い刑事(三船敏郎)
「椿三十郎」の三十郎(三船敏郎)と若侍たち(加山雄三、田中邦衛 他)
そして「デルス・ウザーラ」のデルスとアルセーニエフもあるいはこの範疇に入れてもいいかもしれない。
これらはいずれも師弟という男の関係を描いており、完成された大人の男としての師から、未熟な若者が人生についての様々なものを学んでいくという形をとっている。
はじめは若者特有の視野の狭さから年長者に批判的で反発しているが、次第に彼の言うところの正しさに目を開きかつ人間的大きさに気づきはじめ、いつしか心酔し始めるようになるという展開である。
次に、男同士の対立、争いとしては、先にあげた「姿三四郎」に引き続き「続・姿三四郎」の三四郎と檜垣兄弟の闘い。
「わが青春に悔いなし」の野毛(藤田進)と糸川(河野秋武)の対立。
「羅生門」の多襄丸(三船敏郎)と武弘(森雅之)の争い。
また、先の例と重複するが、「野良犬」の刑事と殺人犯人(木村功)との闘い。
「酔いどれ天使」のやくざの松永と刑務所帰りの兄貴分のやくざ(山本礼三郎)の争い。 「椿三十郎」の三十郎と半兵衛(仲代達也)との闘い。
あげていけばきりがないほど、男同士のあらゆる対立が描かれている。
例え女性が描かれる場合でも、それはきわめて男性的なイメージで表現されることが多い。女性を描いた数少ない映画「わが青春に悔いなし」での原節子は、従来よく描かれた弱い女としてではなく、自立した強い女として描かれている。
「もののあわれ」として描かれることが多いそれまでの女から最も遠い位置にいる、自我の確立された人間として存在する。非常に近代的であり、男性的なイメージと言える。
作家、高橋和己の文章に次のような記述がある。
「『源氏物語』や『枕草子』など、女流の才能によって大きく切りひらかれた日本の文学的伝統は、無意識的に私たちの文学観を規定している。・・・・・・・文壇においては男女の仲に対する精緻な考察をなしうる能力をもつことが、文人の資格の重要な条件と目される考えが流れている。・・・・・・対照的に、私が学んできた中国の文学は男同士の友情を文学の基本的な感情としている。・・・・・数千年間、とうとうとして流れる中国の詩の文学はひたすらに友愛を歌い続けた。」
ジャンルは違っていても、同じ芸術として、映画においても同様のことが言えるのではなかろうか。
日本映画の伝統の中にもこのような流れが確かにあり、そういった意味でも黒澤の映画はきわめて大陸的であり、日本的な湿った美学からすれば少し異質な面があるといえる。
大方の日本映画においては、たとえ男を描いても、その男にとって女性の存在は大きなものであり、また男同士の葛藤においてもほとんどの場合義理とか人情がからんだ展開をみせる。
そうした点においても、黒澤映画の乾いた表現は特異なものであり、きわめて大陸的な精神に彩られているといえよう。
黒澤はよく能の様式や所作を映画に採り入れるということをやっているが、(「蜘蛛巣城」はまさに能そのものの映画であり、「乱」にも、そういった演出が多々見られる)それとは逆に、歌舞伎のそれを、採り入れるという事はない。
能は武士の文化として生まれ、歌舞伎は江戸の町人の娯楽として根づいた文化であり、能が生まれ育った戦国時代というものに、黒澤の関心は深く、そこにあるエネルギーに満ちて伸びやかでダイナミックな時代精神に強く共感しているのである。
そして、逆に江戸の文化の情痴や人情といった粘着力のある世界は、黒澤の資質からは遠いものであり、そうした世界に美や真実を見るという事はない。
先にあげた中国文学の友愛の世界も、まさに日本のこの戦国時代の時代精神と共通したものであって、黒澤の描く作品のモチーフとも、重なるものなのである。
男同士の関係が黒澤にとっての重要なモチーフであるという特徴は、彼の生い立ちとも深く関わっている。
彼の自伝である『蝦蟇の油』のなかに、彼に強い影響を与えた人物として父親と兄、そして小学校時代の恩師が登場する。
彼の父親は軍人から体操学校の教師になった人であり、軍人にありがちな非常に厳格な人物であった。しかし、それでいて、きわめて合理的な精神の持ち主でもあった。
進歩的な考えから、プールをはじめて日本につくったり、ベースボールの普及にも努めて、日本伝統の武道以外のスポーツを積極的に奨励する人であった。
また、時には家族つれだって寄席や映画を観に行くといった柔軟な面も持ち合わせていた。
そうした厳格ではあるが、自由な雰囲気を持った家庭環境が黒澤明をのびやかで、真っ直ぐな精神を持った少年に育て上げていった。
そして兄、丙午は後に黒澤を映画の世界に導くきっかけを作ることになるのだが、黒澤に多大な影響を与えた。
黒澤明は小学校入学当時はひ弱な少年で、いわゆるいじめられっ子だった。それにひきかえ兄、丙午は秀才で喧嘩も強く、まわりから一目おかれた存在だった。
明少年がいじめられると、どこからともなくこの兄が現れ、彼を救ってくれるというような少年であった。
この自伝の中には、そうした弟を鍛えようとする印象的なエピソードがいくつか出てくる。
明少年は毎日兄、丙午と一緒に登校するのだが、その道すがら、兄は明少年を徹底的に罵倒する。それも、大声でなく、やっと聞こえるような小声でそれをやる。
これを毎日のようにやられる。よくも、こんなに多様な云い廻しがあるものだと驚くほどの罵詈雑言浴びせられる。
しかし、そんな意地悪な兄が、休み時間に明少年がいじめられていたりすると、どこで見ていたのか、きっと姿を現す。
そうすると、いじめていた少年たちは、みんな尻込みする。
こういう事が度重なるうちに、登校の道の仕打ちと校庭の兄の仕打ちの意味するものについて、少しは考えるようになり、いつか兄の悪たれ口も、それほど嫌なものでなくなってくる。そうすると不思議なことに、それを素直に聞けるようになってきた。
もう一つのエピソードは次のようなものである。
夏休みに荒川の水練場に入れられ、兄と一緒に通わされる。
しかし明少年は水が怖く、いつまでたっても水泳が覚えられない。
そんなある日、兄が彼をボートに乗せてくれる。
そしてボートが川の中程に来ると、いきなり彼を水の中に突き落とす。落とされた明少年は水の中でもがきながら、なんとかボートに近づこうとする。しかし、やっとボートに近づいたと思うと、ボートが遠ざかる。何度か同じことを繰り返し、水の底に沈みかけたとき、兄に引っ張り上げられる。
水から出ると、案外大したこともなく、少し水を吐いただけであった。
すると兄は彼にこう言うのである。
「明、泳げるじゃないか」
それ以後、彼は水が怖くなくなり、泳ぎを覚え、泳ぐことが好きになる。
子供ながらに、弱い弟を何とか人並みの少年にしようとする男らしい愛情を感じる話である。
こうした兄の励ましと鍛錬によって、彼の幼い頭脳が揺さぶられ、刺激を受け、少年の頭脳に成長し始めたのである。
そして、さらにそれを後押ししてくれるような人物が現れる。
彼の担任の立川先生である。当時では珍しく自由な気風を持った先生で、斬新な教育方針で生徒を指導した。
ある日の図画の授業の時、明少年の書いた絵を立川先生が褒めてくれた。
その絵は、みんなが笑うような絵であったが、先生は笑う生徒たちを怖い顔で見回して、盛んに褒めてくれた。
明少年にとって、それは意外なことであったが、幼い心を強く揺さぶるものであったようだ。それがきっかけとなり、絵を描くことが好きになり、さかんに画を描くようになる。 そして画を描くのが本当にうまくなったのである。
後に、黒澤は画家を志すようになるのだが、その最初のきっかけがこれである。
この時の同級生に、後年、「素晴らしき日曜日」「酔いどれ天使」で共同でシナリオを書くことになる植草圭之助がおり、ともにこの立川先生の薫陶を受けている。
こうした恵まれた環境の中で、黒澤少年は次第にその眠っていた素質を引き出されていくのであるが、最後に兄、丙午との最も印象的なエピソードを書いておく。
それは黒澤少年が十三才の時に起こった関東大震災での話である。
「恐ろしい遠足」と題して書いた黒澤の文章を次に引用する。
『震災による火災がおさまると、それを待っていたように、兄は私に云った。
「明、焼け跡を見に行こう」
私は、まるで遠足へでも出掛けるような浮き浮きした気持ちで、兄と一緒に出掛けた。 そして、私が、その遠足がどんな恐ろしいものかに気が付いて、尻込みした時はもう遅かった。
兄は、尻込みする私を引っ立てるようにして、広大な焼け跡を一日中引っ張り回し、おびえる私に無数の死骸をみせた。
黒焦げの屍体も、半焼けの屍体も、どぶの中の屍体、川に漂っている屍体、橋の上に折り重なっている屍体、四つ角を一面に埋めている屍体、そして、ありとあらゆる人間の死に様を、私は見た。
私が思わず眼をそむけると、兄は私を叱りつけた。
「明、よく見るんだ」
いやなものを、何故、むりやり見せるのか、私には兄の真意がよくわからず、ただただ辛かった。
特に、赤く染まった隅田川の岸に立ち、打ち寄せる死骸の群を眺めたときは、膝の力が抜けてへなへなと倒れそうになった。
兄は、その私の襟を掴んで、しゃんと立たせて繰り返した。
「よく見るんだ、明」
私は、仕方なく、歯を食いしばって、見た。
眼をつぶったって、一目見たその凄まじい光景は、瞼に焼き付いて、どうせ見えるんだ!そう思ったら、少し、腹が坐ってきた。
兄はそれから、隅田川の橋を渡り、私を被服廠跡の広場へ連れていった。
そこは、関東大震災で一番人の死んだ処である。
見渡すかぎり死骸だった。
そして、その死骸は、ところどころに折り重なって小さな山をつくっている。
その死骸の山の一つの上に、座禅を組んだ黒焦げの、まるで仏像のような死骸があった。 兄は、それをじっと見て、暫く動かなかった。
そして、ポツンと云った。
「立派だな」
私も、そう思った。
その時、私は死骸を嫌というほど見過ぎて、死骸も、焼け跡の瓦礫も区別の付かないような、不思議と平静な気持ちになっていた。
兄は、その私を見て云った。
「そろそろ、帰ろうか」
それから私達は、また隅田川を渡って上野広小路へ出た。・・・・・・・・
その恐ろしい遠足が終わった夜、私は、眠れるはずはないし、眠ったにしても怖い夢ばかりを見るに違いない、と覚悟して寝床へ入った。
しかし、枕に頭を載せたと思ったら、もう朝だった。
それほど、よく眠ったし、怖い夢なんか一つも見なかった。
あんまり不思議だから、その事を兄に話して、どういうわけか聞いてみた。
兄は云った。
「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば、怖いものなんかあるものか」
今にして思うと、あの遠足は、兄にも恐ろしい遠足だったのだ。
恐ろしいからこそ、その恐ろしさを征服するための遠征だったのだ。』
これらのエピソードは、まるで、「姿三四郎」の柔道修行のようであり、「赤ひげ」の保本登の成長物語を見るようである。そして確かにそれら作品の原型がここにある。
目を逸らさず物事の本質を見ることをこうした経験から確実に学んでいったのだろう。
そして、後に、この兄は映画の世界に身を投じ、須田貞明と名乗って弁士を務め、評論家としても活躍することになる。
また、ロシア文学にも耽溺し、黒澤に映画の見方とともに、文学を始めあらゆる芸術の世界への水先案内人の役割を果たすことになるのである。
そして黒澤もこの兄の期待に応えるようにそれらの知識を貪欲に詰め込んでいく。
このような状態が十代の後半から二十代にかけての頃であり、まさに後の黒澤の飛躍の芽がこの時に養われたといえよう。
しかし、その兄が突然、この世を去ってしまう。自殺である。原因はさまざまに言われているが、結局、真相はわからない。
黒澤自身もこのことについて詳しくは触れたがらないが、この事件で彼が深く傷ついたと同時に、兄の蹉跌によって達成されなかった遺志を継ごうと深く決意したのではなかろうか。
級友、植草圭之助の書いた「わが青春の黒澤明」の一節に、黒澤の言葉として、次のような描写がある。
「よく言ってたな・・・・人間は基礎工事が肝心だ。立派な人間形成を成し遂げるには若いときに自分に徹底して忠実にならなければ・・・・おれは脱線してしまってダメな人間だが、お前だけは・・・。あくまで自分を大事にして、自分の進む方向を見極めたら、それに向かって自分を充実させなければいけない・・・ぼくと二人だけの時に繰り返し言っていた。・・・兄貴が死んでから、その言葉が、いつも頭の中に・・・。」と呟くのを植草は印象深く聴いている。
しかし、黒澤は未だ自分の進む方向を見極めておらず、迷いの中にあった。
一時は、画家を目指すため、プロレタリア芸術同盟(ナップ)に所属し、描いた油絵が二科展に入選したこともあり、その後、社会主義運動にも関わるようになる。しかし結局、それは黒澤の資質には合わず、また、自分の画家としての才能にも疑問を感じ始めるようになってくる。
次第に絵に対する意欲がなくなり、それとともに自信をなくすようになってきた。
そして、自分の道を見失った気持ちと、兄を失った落胆のなかで、焦燥感ばかりがつのる毎日であった。
そうやって焦る彼に、父親は、焦るな、焦ることはない、と懸命に手綱を取って放さなかった。そして「焦らずに待てば、必ず道は開ける」と逸る心を制御した。
昭和十一年、黒澤はP・C・L撮影所に助監督として採用される。
そして、ここで生涯最良の師である、山本嘉次郎に出会うのである。
この名伯楽のもとで、黒澤は映画のすべてを学ぶことになる。
それはこれまでの彼の人生が、この映画を作るという道に繋がるためだけにあったのではないか思われるほど、この世界は黒澤の資質に合ったものであった。
「私は、キャメラの横の監督の椅子に腰を掛けた山さんの後ろに立って、やっとここまで来た、という感慨で胸が一杯になった。
山さんが、今やっている仕事、それこそ、私が本当にやりたい仕事だったのだ。
私は、やっと、峠の上までたどりついたのである。
峠の向こうには、開けた眺望と一直線の道が見えた。」
山本嘉次郎も早くから、黒澤のあふれるような才能を見抜いていたと思われる。
自分の持てるものすべてを、この若い助監督に伝えようとした。
映画の技術に始まり、シナリオの書き方、人の動かし方、そして趣味の世界、酒の飲み方に至るまで、あらゆることを教えた。
そして、若い黒澤はあらゆることを吸収していった。いつか黒澤は、撮影所のみならず、映画界でも、優秀な助監督として認められるようになる。もう黒澤に迷いはない。後は、がむしゃらにこの道を歩き続けるだけである。
そのがむしゃらな修行時代のエピソードとして、次のような話がある。
助監督時代の思い出として、黒澤が書いていることに、とにかく眠かったという記憶がある。それは、眠る間を惜しんで仕事に励んだということであり、さらに、彼はその忙しい助監督の仕事の後、深夜にシナリオを書き続けるということまでやっている。
それは、秘かに続けられた作業であったが、しばしば目撃されている。
たとえば、彼の先輩にあたる谷口千吉が回想していることだが、黒澤が彼の下宿に転がり込んで、しばらく一緒に住んだことがあった。ある時、深夜にふと目が醒めると、黒澤が電気スタンドの光が漏れるのを気遣いながら、せっせとシナリオを書いているのを目にする。そして、そのサクサクと鳴る鉛筆の音を聞きながら、いずれ自分は、この後輩に追い抜かれることになるのだろうなと夢うつつに考えたと述懐している。
また、高峰秀子はその著書『わたしの渡世日記』のなかで、それと似た光景を目撃している。それは山本嘉次郎の「馬」のロケーション先でのことである。
一日の撮影が終わり、宿でスタッフたちの酒盛りが盛んな頃、彼女が廊下を歩いていると、階段の下の小さな布団部屋から、長身の黒澤が、突然現れる。いぶかしく思った彼女が、その部屋を見ると、そこには小さな机が置かれてあり、上に書きかけのシナリオがのっている。それを見られた黒澤は、秘かないたずらを見つかった子供のように、ちょっと照れてみせたという。
このように彼は寝る間も惜しんで、映画に打ち込んでいたわけだが、このことひとつをとってみても、とても常人には真似のできないことであり、黒澤の修行がいかに凄まじいものであったかということを伝えている。
まさに天才というのは生まれてくるものではなくて作られていくものなのだという思いを強くする。
こういった態度は、彼の創作姿勢でも同じであり、いい映画を創るために考えられるあらゆる工夫と努力をそこに集中させていく。
まずシナリオの創作においては、黒澤独自の方法としてよく知られているように、しばしば共同作業によって書かれていく。
黒澤自身も一流のシナリオ作家の一人であり、ときに、他の監督のシナリオを書くという仕事をやっているのだが、その彼の他に、これもそれぞれ一流の作家たちである菊島隆三、橋本忍、小国英雄、久坂栄二郎、井手雅人、といった錚々たるメンバーの智恵を集めて、本当の人間たちを創造していくのである。
たとえば、黒澤は、登場する人物の徹底的な身上調査を行う。
いつ、どこで生まれ、どういう環境で育ち、どういう性格で、何を好み、何を考え、どういう生活をしているか。どういう体格で、どういう歩き方をし、どういう癖を持っているのか。家族構成はどうなのか。
そういった考えられるすべてを何冊もの大学ノートに書き込んでいく。
そうやって、はじめてひとりの人物の造形の基礎が出来上がるわけである。
そして、そこに、あるひとつの状況を設定すれば、その人間が反応し、動き始める。
また、こうした人間が動き出す物語の進め方、構成の仕方にもアイデアの限りを尽くす。
練り上げられたプロットの面白さ、スリリングな謎解きの緻密さ、伏線の張り方の巧みさ、場面設定及び場面展開の妙、ドラマ作りのすべてのエッセンスがこめられる。
シナリオは、農作業の苗床づくりだと、黒澤は云う。丈夫な苗を作らなければ、けっしていい米は採れないと。
また彼が、助監督たちによく言うことだが、
「一度書き出したら、最後まで書け。途中でダメだと投げ出すと、おしまいだ。苦しくなると投げ出す癖がついてしまうから、絶対、最後まで書け。じっと考えていれば、いい手があるはずだ。黙って毎日考えていると、なにか道はあるものだ。」
行き止まり、引き返し、さらに乗り越えて、ねばりにねばって物語を構築していく。
こうした創作態度が、あの独創的で、魅力に富んだ物語を生み出していくのである。
練り上げられ、磨き抜かれたシナリオを土台にして、撮影が行われるのだが、ここでも様々なアイディアと独創的な作劇法によって、ドラマが形作られていく。
まず第一に、有名なマルチカム方式という撮影の方法がある。
これは、ひとつのシーンを、複数のカメラで撮影するという手法であり、「七人の侍」の時から採用された撮影方法である。
この映画の中で、野武士の隠れ家の焼き討ちと、水車小屋炎上のシーンの撮影が行われわれたが、撮り直しがきかないため、八台のカメラでこれを狙った。そして、この場面の迫力が素晴らしく、最後の雨中の合戦シーンでも、この方法が採られることになる。
そして、あの見事で、独創的な戦闘場面が出来上がったのである。
これ以後、この方法は黒澤明の代表的な撮影方法として知られるようになる。
この撮影法は、俳優の演技が、カット割りによって不自然に途絶えることを防ぎ、さらにカッティングが非常に自然な流れに繋がるという効果を生み出す。
しかし、そのためには、技術的な問題も多く、また長時間の緊迫した演技も要求されるため、リハーサルは綿密を極める。
スタッフ、キャストの総力が要求され、それぞれの能力の限界を試されることになる。その要求は高度なレベルのものであり、出来上がった映像も、類を見ない程の迫力に仕上がる。
黒澤はよく「完全主義者」と言われるが、まさに、あらゆる面において、その名に恥じない方法を採る。誤魔化しや、妥協を許さず、すべてのものが<いい映画>を創るために収斂されていく。
「羅生門」では、鬱蒼とした森の中での惨劇で、ギラギラとした夏の光線と、人間の欲望の無惨な表現を際立たせるために、太陽にカメラを向けるという、それまでの常識では考えられない大胆な試みをする。
さらに、それを強調して映像の陰影を深めようと、照明にも工夫をする。
野外用の照明では、普通は銀紙を被せたレフ板という道具を使うのだが、これを使わず、大きな鏡を使用する。
また、それの効果を更に高めるために、ハーフ・トーンになりそうな樹や草や葉には、黒いスプレーで塗りつぶす。
こうした工夫によって、陰影の強調されたみごとな映像が出来上がり、まるで森が生きていると思えるような幻想的な世界が出来上がり、海外の識者をして、「初めて、カメラが森に入った」と言わしめたのである。
また、この映画の冒頭で、羅生門に降り注ぐ豪雨のシーンでは、消防車数台で大量の水を放水したのだが、肉眼で見るのと違い、カメラで写すと、なかなか思ったほどの豪雨にならない。
そこでいろいろ知恵を絞って、様々な試みをするのだが、決定打がなく、最終的には、水に墨汁を混ぜることで、その効果を生み出すことに成功した。
また「七人の侍」では志乃(津島恵子)と勝四郎(木村功)が出会うシーンで、地面を野菊で埋め尽くすために、毎日、山で採った野菊を何台ものトラックで運び、スタッフ総出でそれを地面に埋める。
しかし、一日の撮影が終わると、それは枯れてしまい、翌日、また、同じことを繰り返す。
この方法は、他の映画でも、しばしば使われており、特によく知られたものとしては、「デルス・ウザーラ」で、ウスリー地方の美しく紅葉した秋を撮ろうとしたところ、一晩の雨で、紅葉がすべて散ってしまい、それを再現するために、広大な森の樹々に、人工の紅葉をひとつづつ貼り付けていったという気の遠くなるような逸話がある。
「七人の侍」で、たくさんの百姓小屋をオープンセットに建てたが、その古びた感じを出すために、材料の木材をいったん表面を燃やし、それを水洗いして、木目を出し、さらにその上に泥絵の具を塗り、最後にワックスがけをして艶を出すという実に手の込んだ細工をしている。
また黒澤映画のセットは、必ず、そこで人が住んで生活をしているという前提を徹底して追求し、カメラに写る、写らないに関わらず、よりリアルなものに仕上げていく。
同じく「七人の侍」の百姓の衣装の作り方も尋常なものではなく、出来上がった衣装をいったん土に埋め、何日かして取り出し、それをタワシでこすって、よれよれにして古びた感じを出す。
とにかく、何事においても、このように考えられるだけの工夫を凝らし、けっして手を抜かない。そして、ディテールを大切にし、しっかりと描いていく。
その積み重ねの上に、<いい映画>が出来上がっていくのである。
よくできた映画でも、ディテールがだめだと、がっかりしてしまい、せっかくの面白さが台無しになってしまうということがよくあるが、黒澤映画では、決してそういう愚は犯さない。
また、「七人の侍」最後の合戦シーンの撮影のときは、ちょうど真冬になってしまい、これから撮るという前夜に、運悪く、大雪になってしまう。そして、この雪を消すために二週間、消防に頼んで、水をかけ、やっと消すことができたというハプニングもあった。
真冬の寒さの中で、このシーンの撮影が行われたのだが、三船敏郎はほとんど半裸の姿で、大雨の中を走り回った。まさにその撮影は、戦場さながらの撮影であった。
この豪雨の合戦のアイデアも、アメリカの西部劇に負けないものをというところから考え出された発想で、西部劇の雄大さに肩を並べるためには、同じやり方ではかないっこないわけで、そこで豪雨の登場となったのである。
西部劇では、雨のシーンというのはほとんどなく、これによって、西部劇に負けない、いやむしろ、それを凌駕したものが出来上がった。
さらに、この作品では、西部劇同様、馬が重要な役割を果たす。
攻撃してくる野武士は全員、馬に乗って攻め込んでくるのだが、この馬の疾走を迫力あるものにするために、様々な工夫がなされるが、代表的なものとして、馬が走るときの土煙がある。
西部劇における走る馬のスピード感の秘密は、この土煙にあるということから、地面に灰をまいて、この効果をねらった。そして、このねらいは見事、的中し、迫力ある疾走シーンが撮れたのである。さらに、この土煙は馬の登場しない場面でも多用され、風が吹きつける様子を視覚的に描写する際に使われたり、人の動きを劇的に高めるためにも使用されている。
「用心棒」や「椿三十郎」においては、本当に人を斬る迫真の殺陣を撮るために、血糊を多量に使い、さらに、刀で肉や骨を斬る音を工夫するなど、それまでになかったリアルで、迫力ある殺陣の表現に成功する。これによって、それまでの舞踊的な殺陣のイメージを一転させ、以後これを模倣した殺陣が主流となっていく。
このように、舞台裏の凄まじいエピソードは、あげていけば、際限なくあるが、これを裏で支えているのが長年、黒澤を支えてきた、いわゆる黒澤組の練達のスタッフたちであり、キャストである。
彼らは、黒澤の手足となって動き、黒澤に<いい映画>を撮らせようという一念で撮影に参加する。
また黒澤は、彼らのすべての能力を投入させることで、イメージの実現を図る。それはまさに、ぎりぎりのしのぎ合いであり、闘いである。
ここにも黒澤の実現しようとする男の世界の厳しい典型がある。
よく黒澤映画の宣伝に使われるフレーズに、使った予算の多さや、製作日数の長さ、つぎ込んだ人馬の数、そういった物理的なスケールの大きさで言われることがあるが、これはなにも、ただむやみに浪費しているわけではなく、<いい映画>を創るためには、そういったものは必要条件であり、また黒澤映画はそのスケールに比したレベルのものを、必ず、生み出していくのである。
ある時、黒澤を批判して、これほどの予算を使えば、いい映画ができて当然である、と言った者があったが、これに対して、黒澤は「金を使うためには、大変な才能がいる。どぶへ捨てる金なら、だれだってできる。しかし、それを生かして使うためには、大変な努力がいるし、才能もいる。無駄に使っているわけではない。いろんなイメージが湧いてくるから、そこに金がかかる」と言って、反論した。
このようにして行われた撮影の多くは、非常に斬新で、実験精神旺盛なものであり、それまでになかった工夫とアイデアに溢れており、黒澤以後、それを模倣するものが多く、そういった意味でも、撮影、照明、美術、音楽、音響、衣装、結髪、殺陣など映画製作上の技術の開発における黒澤組の貢献は非常に大きいものがあると言える。
しかし、これほどまでにして創り出したフィルムも、時には惜しげもなく切り捨てる場合がある。
苦労した場面というのは、愛着もあり、懸命に働いたスタッフに対しての人情もあり、なかなか切れるものではないのだが、全体のバランスを考えて不必要な時は、あっさりと切ってしまう。
よほどの自信がなければできることではなく、非情とも思える作家魂である。
「酔いどれ天使」から「生きものの記録」まで九本の映画の音楽を担当した早坂文雄との間にも、同じ様な話がある。
「生きる」後半の回想シーンに音楽をつけることになり、そこに音楽を入れてみたのだが、音楽を入れないときにあった映像の力がなくなってしまっている。
そこで黒澤は予定を変更して、その音楽を全部とってしまう。その結果、一生懸命作った音楽を使われなかった早坂はひどく落ち込んでしまうということがあった。
また、「七人の侍」の、野武士が最後に攻め込んでくる場面で、オーケストラによる大シンフォニーが入れてあったのを、全部、切ってしまった。
しかし、この時はそれに変わる方法で音を入れ、よりいっそうの効果が現れたので、早坂は納得したそうである。
このように非情な態度をとってはいるものの、この早坂文雄に対する黒澤明の信頼と友情は、非常に篤いものがあり、「生きものの記録」の撮影中に、早坂が不幸にも亡くなってしまうのだが、この時の黒澤の落ち込み方は尋常なものでなく、撮影を一週間、休んでしまったほどである。
それほど早坂は彼にとって、なくてはならない存在であり、映画における音楽の重要性を誰よりも深く認識していたのである。
黒澤映画の音楽の使い方で、よく知られているものに、対位法という手法がある。
これは、異質な要素を持つもの、相反するものを対比させることで生じる効果をねらった手法である。
「酔いどれ天使」で、三船敏郎演ずる、やくざの松永が、真田医師(志村喬)から重い肺結核に罹っていると知らされ、絶望的な気持ちで闇市を歩いていくシーンで、その松永の暗い気持ちとは裏腹な明るい「カッコウワルツ」の曲が闇市の拡声器から流れてくる。
当たり前なら、松永の気持ちを代弁するような悲しい曲を流すところだが、それではあたりまえすぎて面白くない。
説明的になりすぎ、映像が曲に流されてしまい、通りいっぺんの薄っぺらな描写になってしまう。
そこで、あえてその逆をいくことで、よりいっそうの効果を生み出そうとする。それが、この対位法である。
このシーンは、黒澤の体験から生み出されたものである。
この作品の撮影中に、彼の父親が亡くなり、運悪くその死に目に会うことができず、悲しみに沈んで街を彷徨ったとき、どこからともなくこの「カッコウワルツ」が流れてきた。その明るい調子の音楽が逆に黒澤の悲しい気分をよりいっそう掻き立てたのである。それを黒澤はさっそく作品に使ったのである。
「野良犬」のなかにも、この対比法の効果的な使われ方がある。
三船敏郎の刑事が、木村功の殺人犯を郊外の森のなかに追いつめ、拳銃を持った犯人と相対して睨み合うという緊迫した場面で、近くの住宅からピアノの音が流れてくる。死と向かい合ったふたりと、その平和なピアノの音色はなんとも不釣り合いなものだが、それだけに却って緊迫した状態が強調され、見事な映画的表現になっている。
拳銃が発砲されて三船は傷つくが、なおも諦めずに犯人を追いつめていく。
そして、ついに犯人を逮捕する。精根尽き果てて深い草むらに倒れたふたりのむこうを、その場の様子を知らない数人の子供たちが、「蝶々」の唄を歌いながら歩いていく。
そのあどけない歌声を聞きながら、逮捕された犯人が号泣する。
見事な表現であり、対位法の効果が最大限に生かされた場面である。平和でのどかな風景のなかで死をかけた闘いが劇的に描かれているのだ。
この対位法は、音楽に限らず、黒澤映画の作劇法の大きな特徴になっている。
これは黒澤が好んで描く男の対立というテーマにも重なるものであり、力と力がぶつかり合うダイナミックな物語にはなくてはならないものである。
異なるもの、対立するもの、正反対なもの、静と動、善と悪、生と死、富と貧、光と影、明と暗、喜びと悲しみ、強いものと弱いもの、あらゆる対比と対立が重要な鍵となって表現されていく。
それはテーマにおいても、視覚的なものにおいても、作劇においても見られる傾向だ。
「生きる」における生と死の対比。また癌で余命幾ばくもないと知った主人公(志村喬)が絶望的な気持ちで町をさまよい歩くが、ここでは一切の音を消し去って、トラックが主人公を轢きそうになった瞬間に打って変わって激しい警笛を鳴り響かせる。
絶望感にうちひしがれた主人公の気持ちを音のない画面で表現し、車の大きな警笛で現実に引き戻されるという無音と大音響の対比によって主人公の激しく動揺する気持ちに劇的な効果を上げている。
また自分が癌だと息子(金子信男)に告白しようとするが、息子はもう昔のような優しい息子ではなく、悲しみのなかで、過去の幸せな時代を回想する。その幸せな親子の場面と冷えてしまった現在の場面の対照的なカットバック。
「羅生門」の光と影の強い対比。
そして、森のなかのうだるような夏の暑さと羅生門に降り注ぐ豪雨のカットバック。
「野良犬」における刑事と犯人の対比。ふたりは復員兵という同じ境遇でありながら、追う側と追われる側に分かれて、対立する。
「天国と地獄」では、まさに天国と地獄に分かれて相対する。
「七人の侍」の武士と百姓。強い者と弱い者。攻める者(野武士)と守る者(侍と百姓たち)。
「椿三十郎」のラストの三十郎と室戸半兵衛の対決の静から動への見事な転換。一分近い睨み合いの後の一瞬の居合い切り。そして、激しく吹き上げる半兵衛の血潮。
「赤ひげ」の生と病、及び死。富者と貧者。
あらゆる相反するものが画面のなかで、激しい衝突を繰り返し、それらの要素が掛け合わされて、劇的で力強い作品が生まれていく。
こうした傾向は、何事も白黒をはっきりさせるという黒澤の資質からくるものであり、どんなこともうやむやにはできない強い性格に合った表現方法だと言えよう。
先の黒澤の生い立ちにもあったように、黒澤の資質には、合理精神とともに武士的な強さ、自我の強さがある。曖昧なもの、淡泊なものは黒澤の好むものではなく、いつも輪郭のはっきりしたものを志向する。
しかし、こういった傾向は、物事をあまりにはっきりと色分けしすぎるため、時には図式的になり、またいささか観念的にもなり、リアリティーの喪失に繋がるという場合もでてくる。
あいまいなものを、あいまいなままで表現する事で、より深いリアリティーを出すという事も時にはあるわけで、黒澤映画の場合、こうした表現方法は採られない。だが、黒澤はその力技で、ぐいぐいと映画を引っ張ってゆき、有無を言わせない力強さで描ききる。
このような黒澤の自我の強さは、さらに、より強いもの、父親的なもの、完成された人間への憧憬へと志向していく。
そしてその強い自分をより強く鍛えることで、さらに次の高みまで、自分を押し上げていこうとする。
彼にとっては、そうした高みに立つことができる資質を持った人間こそが描く対象であり、関心があり、興味がある。
そして、それを振幅の激しい強い調子の表現で、スケール大きく描いていく。
その手法のひとつが先の対位法であり、さらにそれを激情的に、また誇張をし、衝撃的に、極端に、酷烈に、徹底して描いていくのである。
彼の描く自然描写も同様で、そうした同一線上で表現されていく。
雨は豪雨であり、風は嵐になり、雲は飛ぶように走り、夏の太陽は強烈に輝く。黒澤映画の自然は常に酷烈に描かれる。そして、それを効果的に使う。
雨の日もあれば、風の日もある。寒い日もあれば、暑い日もある。いつも青空ばかりではなく、雲の多い日もあれば、陽の全く射さない日もある。
人間の行動は、こうした天候に左右されるのが自然であり、そうした変化を、きめこまかくドラマのなかに重ねていく。
また俳優の演技も、同様の表現が要求される。
全力投球の演技であり、もてる能力すべてを搾り取られる。
そうした演技がツボにはまったときには素晴らしい迫力が生まれるが、時には、その全力さが空回りをし、観客を白けさせるということにもなりかねない。
特に「影武者」や「乱」に、そうした傾向が現れており、過剰な演技が演劇的なものになってしまい、それが映画の世界に入っていこうとする気持ちをそいでしまうことになる。
しかし、大部分の映画においては、その熱演が効果的であり、力強いものに仕上がっているのだが。
このような対立するものの酷烈な映画表現は「赤ひげ」において、一応の完結をみることになる。
この映画はそれまでの黒澤映画の集大成的な作品となっている。
モノクロ最後の映画であり、三船敏郎との最後のコンビ作品ということでも記念碑的な作品といえるだろう。
これは、赤ひげと呼ばれる反骨の医師、新出去定と若き医師の卵である保本登の師弟関係を縦軸に、小石川養生所という江戸の施療病院に集まる貧しい患者たちの人生を横軸にとった映画である。
赤ひげと呼ばれる新出去定は、それまでの黒澤映画の父なるものの集大成的人物である。
「姿三四郎」の矢野正五郎や「七人の侍」の勘兵衛の冷静沈着な強さ。
「用心棒」「椿三十郎」の三十郎の豪快さ。
「野良犬」の佐藤刑事の長年培ってきた本物のプロ精神。
「酔いどれ天使」の真田医師の人間臭さ。
そうしたすべてを、あわせ持った人物として描かれる。そしてそれに対比して、若き医師、保本登は例の如く、人生経験浅く、未熟で自分本位で、それでいて野心の強い若者として描かれる。
当然のことながら彼は赤ひげの人間としての大きな器に気づいていない。
だが、その養生所での様々な患者たちの悲惨な人生を通して、次第にそれに気づきはじめ、彼自身も成長していく。
繰り返し語られ、得意とする物語の形をとったこの映画で、黒澤は「生命の歓喜」を謳いあげようとする。そして、その決意を示そうと、撮影のはじめに、ベートーベンの「第九」の「歓喜の合唱」をスタッフたちに聞かせて、こう言った。
「最後にこの音色がでなかったら、この作品はダメなんだ。このメロディーがでなかったら」。
そして、完成した作品から、そのメロディーは鳴り響き、「生命の歓喜」が高らかに謳いあげられるのである。
黒澤の二十数年におよぶ<闘いの映画>は終わりを告げ、次の新たな一歩を踏み出すことになる。
撮影後、黒澤はしみじみと言った。「これで、ひとつの区切りがついた。これからは、やりたいことをやっていくよ」
しかし、皮肉なことに、黒澤にとっては、この後、困難な時代が続いていくことになる。
映画産業の斜陽化の波は、いかに黒澤明といえども、その影響から逃れられることはできず、様々な挫折を味わうことになっていく。
アメリカ資本による日米合作映画「暴走機関車」の制作途中での無期延期。
同じくアメリカ、二十世紀フォックス社制作の「トラ・トラ・トラ!」の監督解任劇。
このような蹉跌の後、「赤ひげ」から実に五年の歳月を経た後、ようやく完成した初のカラー映画「どですかでん」の興行的な失敗。
そして、突然の自殺未遂事件へと続いていく。この事件は、幸いにも傷が浅く、大事には至らなかったが、映画産業の沈滞を象徴するような出来事であった。
日本の映画産業は、もう黒澤を受け入れるほどの器も、体力も持ち合わせていないということを白日の下に知らしめたのである。
しかし、ここで黒澤明に救いの手が、差しのべられる。
ソビエトのモスフィルム撮影所から彼に映画製作の誘いがかかるのである。
そして長年暖めていた「デルス・ウザーラ」を撮ることになる。
黒澤は、過去、ドフトエフスキーの「白痴」とゴーリキーの「どん底」を映画化しており、ロシア的な精神を理解する作家としてソビエトでは絶大な人気があった。
そして、黒澤は二年の歳月を懸けて、この映画を完成させるのである。
これは自然と一体化して生きる森の住人デルスの生と死の物語である。
シベリアの大自然のなかで、動物的な鋭い感覚を頼りに自然とともに生きる猟師デルスが、その感覚が次第に衰えてゆき、ついには不幸な形で死んでいくという物語をシベリアの自然の雄大さとともに描いている。
成長する男たち、そして完成された男たちを描いてきた黒澤が、「赤ひげ」以降の困難な時代のなかで、初めて自分の老いと衰えを自覚し、それを、デルスの姿に重ねたのである。
ここで黒澤は、それまでの対立や衝突といったモチーフから離れ、静かな表現をすることで、この自然児の生と死を雄大に描いたのである。
シベリアの大自然は、そうした表現上の操作は必要ないほど雄大かつ驚異的であり、また、様々な軋轢を経てきた黒澤自身の心境も、この大自然のなかでは澄んだ静かなものだったのではないかと思われる。
人智では、どうにもならない巨大な自然のなかで格闘することで、傷つき疲れた黒澤の精神が、次第に癒されていったのだろうということは、想像に難くない。
そして、この「デルス・ウザーラ」の完成以後、黒澤は、本当の意味で、「やりたいもの」をやっていくことが、出来るようになる。
世界が黒澤を見捨てず、さらなる黒澤映画の行方を観たいがために、さまざまな資本の協力が寄せられるようになってくる。
それは、たとえばハリウッドの新世代の監督であるコッポラ、ルーカス、スピルバーグたちであり、黒澤作品の偉大さを賞賛してやまないフランス映画界からの協力であった。
そして続く「影武者」「乱」でも、「デルス・ウザーラ」で描いたように、滅びていくものたちの物語を、その独特の色彩感覚にあふれた映画として、作り上げていく。
それは一巻の戦国絵巻と呼べるような絵画性あふれる映画であり、戦国の闘いを描いているにも関わらず、戦闘場面は、ほとんどなく、以前の黒澤であれば、スペクタクルあふれる戦闘を描いたであろうと思われるが、そういった描写は、いっさい省き、ただ戦闘の後の傷ついた兵や倒れた馬といった無惨な様子だけを描いている。
黒澤映画に、われわれが期待するものは、「七人の侍」や「用心棒」のようなダイナミックなアクションであり、「生きる」や「赤ひげ」のようなドラマチックな人間ドラマである。
しかし、黒澤にとって、これらの表現は、もうすでに過去のものであり、それらの映画群のなかで、そうした表現は、すべてやり尽くしたという思いが、あるのであろう。
観客の期待に背くことになっても、敢えて「やりたいもの」をやっていく道を選んだのである。
彼にとって、過去に作ったような激しい対立や衝突は、もはや表現の対象ではなく、いまや、避け難くなってしまった「老い」と「死」だけが、身近で切実な問題としてある。
黒澤は、闘えるだけ闘ってきたのであり、いまや、その後のことに関心が移っているのだ。
映画的には、いくらでもダイナミックに描ける題材を、敢えて描かずに、激しい闘いの残影だけを追い続けている。
また、ある意味では、これらの映画によって黒澤が過去に画家になることを夢みたという経歴の実現を図ったとも考えられる。
それほど、この二本の映画の絵画性は際立っており、戦国絵巻としての完成度は、非常に高い。しかし、そこに繰り広げられる人間ドラマには、かってのドラマに見られた生命力はなく、ただ滅びていくものの、壮大な悲荘美が見られるだけである。
「デルス・ウザーラ」から「影武者」「乱」と続くなかで、いまや黒澤は、完全に復活を果たしたと言える。
「赤ひげ」までの二十二年間に、二十三本の映画を撮ったペースからみれば、五年に一本というペースは、決して多くはないが、この映画製作にとって厳しい時代というものを考えれば、このような大作を、途切れなく「つくりたいもの」を作りたいように作れるという現在の状態は、非常に恵まれたものであるといえよう。
黒澤自身も、そうした現在の状況に、充足していると思われる。
そして、その満ち足りた心境を物語るように「まあだだよ」が作られる。
この映画で、松村達雄が演じる内田百間はまさに現在の黒澤の姿であり、老いた百間を弟子たちが慕い、支える構図はそのまま黒澤とスタッフたちの姿に重なるものである。
喜寿のお祝いに、多くの弟子たちから、祝福され、子供のようにはしゃぐ姿は、まさに現在の黒澤の満ち足りた姿でもある。
カンヌ映画祭で「影武者」がグランプリを受け、ヴェネチア映画祭で、「羅生門」が過去五十年間のグランプリ作品のなかの最高の映画(獅子のなかの獅子)として選ばれ、さらに1990年には、アメリカ、アカデミー賞委員会から、世界の映画芸術の発展の偉大な功労者として、アカデミー特別名誉賞を受賞。その席で、彼の八十才の誕生を祝うセレモニーが行われ、ハッピーバースデーの大合唱で祝福されるという栄誉を受ける。
彼の築いてきた業績にふさわしい賞賛が、満ち足りた晩年に、このように用意されていたということは、黒澤明という巨きな芸術家にとって、まさにふさわしい遇し方であろう。
そして、八十七才の今日、いまだ創作意欲は衰えず、次回作の構想を練っているという事実を思うと、九十才を越えても、なお絵筆を捨てなかった画狂人北斎を連想するのはひとり私だけではあるまい。
世界の巨匠と呼ばれる人たちが、ほとんど他界してしまった今、ひとり孤高を保つ黒澤明が、今後、どのような作品を作り続けることが出来るのか、期待と不安を持ちながら、見守り続けていきたい。
そして、観るたびに、新しい発見と驚きがある偉大な作品群を、今後も繰り返し観ることで、さらに、それらと格闘し続けていきたいと、考えている。
1997年 春
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