軽妙洒脱で都会的な映画を作った川島雄三が青森県むつ市の出身だということは、今ではよく知られた事実であるが、川島監督が生前の頃にはそのことはほとんど知る者がなかった。
それは川島自身がそのことを語ることがなかったということによるのだが、実際にはむしろ意識的にその話題を避けていたというのが今や定説となっている。
これは彼の故郷にたいする屈折した心情からくるものであり、彼の口癖である「積極的逃避精神」の発露したものでもあった。
下北半島の喉元に位置するむつ市は恐山を背後に従えた町であり、今でも訪れる者に荒涼たる気分を起こさせる。
ましてや川島雄三の育った昭和初期の頃はさらにすさまじいものであったに違いない。
旧家に生まれ、家に閉じこもりがちで読書好きだった川島少年が早くから故郷脱出を夢みていたとしてもけっして不思議なことではなかろう。むしろ多感な少年にとってはきわめて自然なことであっただろう。
昭和10年川島は明治大学に入学することで念願の故郷脱出を実現することになる。
映画好きであった彼はさっそく映画研究部に入部する。その時の部のリーダーが後の社会党委員長の飛鳥田一雄であり、川島は飛鳥田から強く影響を受けることになる。
卒業後、松竹大船撮影所に助監督として入社するのだが、この時も川島は飛鳥田に相談をしている。しかし飛鳥田は反対をし、何とか思いとどまらせようとしている。助監督の仕事はいわば肉体労働であり、見るからに華奢な川島にはとうてい勤まらないのではないかと考えたからだ。だが後に飛鳥田はこのことで自分の不明を恥じている。
助監督川島は飛鳥田の想像した通りあまり有能な存在ではなく、むしろコンプレックスの強い一見弱々しく見える存在であったようだ。ただよく本を読んでおり時おり酒に酔った時などに難しい知識を振り回しひとを煙に巻くようなところがあった。彼のシニカルでいたずら好きな特徴が顔を見せている。
昭和18年、撮影所の主だった監督たちが次々と軍隊に応召されたため、手薄になった監督の補充の必要が生じる。そこで監督昇進試験が行われ、川島はトップの成績で監督に抜擢される。
それまでは監督の推薦がなければ昇進できないという暗黙の慣習があり、助監督としては有能でない川島が推薦されることおそらくはなかっただろうから、この試験がなければ彼が監督になることもなかったのではないかというのが大方の見方である。
初監督作品は織田作之助原作脚本の「還ってきた男」であった。
この頃から川島雄三の肉体に徐々に異変が現れ始める。左の手足が次第に不自由になり、あきらかにびっこをひくようになってきた。川島自身はそれを小児麻痺であると言い続けたそうだが、進行性の筋萎縮症ではなかったかと後には言われている。
川島の母親は彼が五才の時、三十五才の若さで亡くなっており、ふたりの姉もそれぞれ十七才と二十四才で亡くなっている。このことと考えあわせると、川島のなかに不吉な死の影が射し始めただろうことは間違いない。
もともと権威に反発する資質を持ち合わせていた川島の性格がこのことでさらに拍車がかかっただろうと思われる。斜に構えたシニカルでニヒルな視線がさらに鍛えられた。
こういった資質が戦後無頼派と呼ばれた織田作之助とも通じるものがあった。この作品以降、急速に接近し、ともに「軽佻浮薄派」を名乗ったりする。
後年、織田作之助の死後、彼の作品をもう一度映画化することになる。「わが町」である。織田作之助を追悼する意味も込めたこの映画は織田が育った大阪の河童路地を舞台にした辰巳柳太郎扮する車引き、佐渡島他吉の一代記である。河童路地に住む貧しいが人情に篤い愛すべき住人たちを描いたこの作品は、大阪の下町を生き生きと描写しており、都会派監督川島の面目躍如たるものがある。
戦後無頼派の作家たちは川島の資質に近いものがある。太宰治もそのひとりであり、彼は川島と同じ青森県出身の作家であり、育った境遇にも似たものがある。川島は少なからぬ影響を太宰から受けたのではないかと思われる。現に川島は太宰の小説を熱心に読んだふしがある。
ただ太宰は死に魅せられた作家であり、生きていくことを早々と諦めたようなところがあり、その点で多少川島とは異なっている。同じデカダンでも川島の場合は居直った強さがあり、深刻ぶって死を考えるといった姿勢は見せず、むしろ死と握手するようなふてぶてしさがある。 彼の代表作である「幕末太陽伝」のなかで、主人公左平次が「首が飛んでも、動いてみせまさあ!」と言ったのは川島の偽らざる本音ではなかろうか。
また、この映画のラストシーンでも左平次似に「地獄も極楽もあるもんけえー、おいら、まだまだ生きるんでエー!」と叫ばせて街道を走り去らせている。
左平次は落語「居残り左平次」を下敷きに川島が自由に作り変えた人物で、これをフランキー堺が見事に演じており、彼の生涯最高の演技といえるものである。
この映画の完成後、川島はフランキーに「次回作は写楽です」と言ったそうだが、結局この言葉は実現されず、その後三十数年を経て川島の遺志を継いだフランキー堺の執念によって映画化が実現する。しかし皮肉なことにかれ自身が写楽を演ずることはできず、如何ともしがたい時の流れを感じてしまう。
だが「幕末太陽伝」でのフランキー堺はまさに水を得た魚の如く縦横無尽に画面の中を飛び跳ねている。左平次のしたたかで一筋縄ではいかない性格がフランキーのジャズから落語までこなす小器用なキャラクターにうまく重なって、これ以上ない見事さで演じられている。フランキーの快調な演技と相まって川島のスピーディーでモダンな演出も冴えを見せており、これは文句なしの一級品である。
松竹大船撮影所に始まったかれの監督生活は戦後の新生日活への移籍を皮切りに、大映、東宝と各社を渡り歩いており、生涯にわたって娯楽映画を作り続け、駄作、失敗作も数多い、にもかかわらず今に至るまでも語られることが多く、不思議な輝きを持ち続けている。 もちろん「幕末太陽伝」をはじめ「しとやかな獣」「雁の寺」「州崎パラダイス・赤信号」などの秀作が評価されてのことだが、駄作、失敗作といわれるものにもなぜか無視できない魅力が感じられる。
これは彼一流の照れ、衒い、露悪的な性向が大きく関わっていると思われる。
例えば、彼はけっして大上段に構えることをよしとしない。むしろそういう態度をひどく嫌う。深刻ぶったり生真面目に行動することは彼のダンディズムが許さない。
映画がある高みに達すると、ひょいとそれをはずそうとする。そして不快なもの、ひんしゅくをかいそうなものをはさむことでそのリズムを中断させてしまい、ひとり悦にいる。
例えば彼の映画には不必要なほどよく便所のシーンが出てくるが、これなどはその最たるものであろう。きれいなものをきれいなままで出すのをよしとしない。まことに一筋縄ではいかない複雑にねじ曲がった心情が彼の中にある。そして時にはこのような表現が思わぬ効果を上げることもあり、それが非常な魅力となるのだが、多くの場合、作品の出来を貶めることになる。
川島雄三を評するときの言葉に、シニカル、ニヒル、デカダン、いいかげん、露悪的、無責任、自虐的、などがあげられるが、そうやってみるとなんとも御しがたい嫌な男のイメージが浮かび上がってくる。 果たして川島雄三という人間はそういう男であったのかといえば、少し違うようである。
こういうマイナスの要素を併せ持ちながら、彼はまわりの人間から敬愛された。
よく酒を飲んで絡んだそうだが、けっして後をひくことがなく、不思議とひとから恨みがましいことを言われたことがない。なんとも不思議な人徳を持った人物である。
トランプのマイナスばかりを集めると最後にはプラスに転化するというルールが確かあったように思うが、それに似たようなところがある。
残されたスナップ写真に写った川島雄三は口をとがらせ、ぎょろりとした目で上目使いに睨んでいる。ひとを射すくめるような目は怒ったようでもあり、呆然と見つめているようでもある。なかなかの二枚目であり、一種独特の雰囲気がある。鬼才のイメージを裏切らない。しかしよく見るとどことなく愛嬌が感じられる。人間的な深みというか魅力を感じさせる実にいい顔である。
彼を評する言葉と同じように非常に多面的な印象である。
そしてこのような複雑な印象を残したまま、昭和三十八年、わずか四十七才の若さで死んでしまう。
死因は「心臓衰弱」。彼が重く背負い続けた進行性の障害が直接の原因でなかったのはなんとも皮肉なことである。
ある映画作家の作品を観ることで、その人間を詳しく知りたくなり、その人となりを知ることでますます作品が面白くなる。作品をより理解するためにそういった作業は別段珍しいものではないが、川島雄三の場合はとくにその作業が重要で、必要欠くべからざることだと思う。その面白さというか興味の広がりはまるで映画「市民ケーン」での謎解きのように複雑であり、知れば知るほど深まっていく。
そして彼の死後その思いはますます強くなり、それとともに彼の作品に対する評価もますます高まっていく。
この点においても、不思議と同郷の太宰と似たところがある。いまだに太宰の命日の桜桃忌にはファンが大勢集まるが、川島の場合も同様で、今でも毎年彼の命日は「雄三忌」として多くの関係者、ファンが集まって彼の生前を偲んでいる。
しかしこうやって太宰と並べて語られることは川島の本意ではないだろう。
確かに川島は太宰を熱心に読み、少なからぬ影響も受けたに違いないのだが、生前の彼はけっして太宰に心酔していたわけではなく、むしろ太宰を批判的に見ており、嫌っていた。
これはまさに川島の近親憎悪の現れであろう。ここにも川島のねじれた複雑な心理が見える。「太宰なんかと一緒にしないでくれ」そんなふうに言い出しそうである。
昭和五十四年、彼の十七回忌に故郷むつ市に「川島雄三の碑」が建てられた。そしてそこに刻まれた碑文は彼の生前好んだ言葉で
「花に嵐のたとえもあるぞ、
サヨナラだけが人生だ」となっている。
くしくも、これは太宰治が師事した作家井伏鱒二が訳した漢詩の一節なのである。 |