映画日誌
 
1998年4月
 
 
 
 
4/1 ロング・キス・グッド・ナイト
(97アメリカ)
 
 

 
 「カットスロート・アイランド」に続いてレニー・ハーリンが妻であるジーナ・ディビスを主役に撮ったアクション映画。 
 女だてらに派手なアクションに果断に挑んで楽しませてくれるが、やはり腕っ節の強さは女性には似合わないということを改めて思わせられる。 
 いくら超ハードなアクションを展開してもいまひとつ心が躍らない。 
 女でも男に負けないアクションができるのだというジーナ・ディビスの心意気は解らぬでもないが、(そしてその奮闘ぶりはなかなか見事だとは思うが)やはりいまひとつ乗り切れないものが残る。 

 ジーナ・デイビスという女優は急進的なフェミニストのようで、最近出演の映画の役柄はほとんどが男勝りの女性ばかりだ。 
 「テルマ・アンド・ルイーズ」「プリティー・リーグ」「カットスロート・アイランド」そして今回の「ロング・キス・グッド・ナイト」とすべて男を向こうにまわして一歩もひけをとらないという役ばかりである。 
 これは最近のデミ・ムーアなどにも共通する傾向のようで好んでこうした役柄を選ぶようだ。 
 時代の流れがそうしたものを支持する方向にあるということだろうが、どうも私の好みではない。 
 古いと言われるかも知れないがやはり女性は優しく可愛いほうが好感が持てる。 
 そのうえで主張するところは主張し、いざというときは女性らしい強さを発揮するというほうが好ましく思える。 
 女性が超人的な強さで男たちをなぎ倒していくというような設定はどうにも無理がありすぎて不自然だ。 
 だから彼女たちがどんなに活躍しようといっこうに格好良く思えない。 
 とここまで書いてきてなぜか妙にすっきりとしないものを感じてしまうのだ。 
 どうも書いていることに違和感がある。 
 そこでもういちどじっくりと考え直してみると、やはりいささか思い違いをしていることに気がついたのである。 
 女性が男性と対等に活躍するアクション映画をけっして嫌いなわけではなかったということだ。 
 というよりも女性が理不尽な敵に敢然と立ち向かっていくというような設定の映画はむしろ好きなジャンルの映画であったということだ。 
 その活躍する勇姿に常々痛快なものを感じていたというのが本当のところなのである。 

 例えば古くはジーナ・ローランズがマフィアを相手にひとり闘う「グロリア」の颯爽とした私立探偵ぶりなどは強く印象に残っているもののひとつである。 
 また「私がウオッシャウスキー」のキャスリン・ターナーの私立探偵ぶりも同様である。 
 主人公の女だてらのハードボイルドぶりにはうならせるものがあった。 
 「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター演じるFBI訓練生の活躍も印象が深い。 
 「ブルースチール」のジェイミー・リー・カーチスのNY市警役も忘れがたい。 
 NY市警の制服姿がよく似合っており、妙に色っぽくて目に鮮やかだった。 
 猟奇殺人犯とのめげることのない闘いは女性ならではのしぶとさを発揮したものであり、挫けそうになる自分を奮い立たせようとする姿はまことに健気であった。 
 「ニキータ」のアンヌ・パリロー演じる女殺し屋もカッコいいキャラクターで、その強さに不自然さを感じることはまったくなかった。 
 さらにそのリメーク版である「アサシン」のブリジット・フォンダも同様である。 
 またこれぞ真打ちとも言うべき「エイリアン」の女性航海士リプリー(シガニー・ウィーバー)の場合になればどんなマッチョな男もとうてい敵わないのではないかと思わせられる強さである。 
 その強靱な肉体と精神はどんなものも受け入れてしまう女性特有の柔らかさを備えた強さといえよう。 
 得体の知れない怪物エイリアンを向こうにまわし、ひとりで敢然と闘いを挑むリプリーの強さは映画史上最強のものに違いない。 
 そしてその強さ、次々と降りかかってくる難関を必死にかいくぐって進んでいくファイティング・スピリット、ネバー・ギブアップの精神は実に自然でリアルに感じられるものであった。 
 「まさか女性がここまでやれるのか?」といった疑問を差し挟む余地はない。 
 むしろ「彼女のタフさをもってすればどんな窮地だろうと必ずや抜け出すことができるに違いない」という信頼感に満ちている。 
 タフな男性ヒーローと肩を並べても遜色がない。 
 このように考えてくると、「ロング・キス・グッドナイト」に感じる違和感とはいったい何なのか。 
ただ主人公が女性だからというだけの理由ではなさそうだ。 
 いろいろな原因があるのだろうが、もっとも大きなものはおそらくジーナ・ディビスに対する違和感であろう。 
 例えば彼女がふと見せる表情のなかに見えてくる間の抜けた気配。 
鋭さがないというか、ドスがきいていないというか、緊張感のない弛緩した気配を感じてしまう。 
 その印象のせいでいっこうに強そうに見えないのである。 
 彼女の現実離れした活躍もリアリティが感じられず、どうしても不自然なものに感じてしまう。 
 大量の火薬を使った爆発シーンやハラハラドキドキというスタント・シーンがこれでもかというふうに登場してくるがいまひとつ乗り切れない。 
 これは前作「カットスロート・アイランド」のときにも感じたことである。 
 あえて 言い切ってしまえば、ジーナ・ディビスは大味な女優だということだ。 
 先に挙げた女優たちがもつ微妙なバランス、強さと優しさ、さらには自分の弱さを克服して生き抜いていこうとする人間的な苦悩や葛藤といったものがジーナ・ディビスには稀薄なのである。 
 作り物の嘘臭さがどうしても拭い去れない。 
またレニー・ハーリンの演出にも「ダイ・ハード2」の頃の切れ味が感じられないといったこともあっていまひとつ乗り切れない映画であった。 
 


 
製作 ステファニー・オースティン 製作・監督 レニー・ハーリン
製作・脚本 シェーン・ブラック 撮影 ギレルモ・ナバロ 音楽アラン・シルベストリ
出演 ジーナ・ディビス/サミュエル・L・ジャクソン/パトリック・マラハイド/デビッド・モース
 
 
  
 
 
 
 
4/2 心の指紋
(96アメリカ)
 
 
 
 「癒し」が現代人にとって切実で大きなテーマのひとつであることはいまや異論のないところで、現代社会において人は様々な方法を駆使して「癒し」を求めようとしている。 
 マイケル・チミノ監督の「心の指紋」もそうした「癒し」がテーマであり、ネイティブ・アメリカン(インディアン)の自然と共存していく文化を現代文明に対比させることでそれを実現させようと試みている。 
 膨張するいっぽうで出口を見失ってしまった現代文明の先行きをインディアンがもつ伝統的な精神文化を再評価することで切り開こうとする動きが最近のアメリカで見られる。 
 この映画もそうした流れのうえに成立した物語である。 
 主人公のひとりは大病院のエリート医師(ウッディ・ハレルソン)、そしてもうひとりはナバホ・インディアンの血を引く非行少年(ジョン・セダ)である。 
 犯罪を犯して囚われている少年が病気の疑いで刑務所から病院に移送されて来る。 
 豊かな生活を享受している医師と犯罪と貧しさのなかで悲惨な生活を余儀なくされている少年という環境も立場もまったく違うふたりがこうして出会うことになる。 
 そして末期癌に冒されて余命幾ばくもないということが判明すると、少年はわずかな隙を見つけて医師を人質にとって逃亡する。 
 少年はナバホ・インディアンの伝説のなかで語られている病を癒す湖の存在を信じており、それを探しだすために車でアリゾナの山中へと向かっていく。 
 だが、そんな現実離れした行動を現代科学の最先端にいる医師は「単なる迷信」だと一笑に付す。 
 そしてなんとか少年から逃れようとするのだが、その試みはことごとく失敗に終わる。 
 対照的なふたりの逃避行が西部劇の犯人と人質といった趣で広大な西部の原野のなかで繰り広げられていく。 
 だが反発し憎しみ合っていたふたりが逃避行を続けるうちに次第に相手を理解し始め、いつしか友情が芽生え、なに不自由なく見えていたエリート医師が実は子供時代に兄の生命維持装置をはずして死に至らしめたという隠された過去をもっており、そのことで深く傷ついていることが明らかになってくる。 
 そしてその苦しみを媒介にすることで次第に少年への共感を感じるようになってくる。 
 いつしか彼も伝説の湖の存在を信じるようになり、衰弱していく少年に変わって車のハンドルを握り幻の湖を目指し始めるのである。 
 現代医学ではどうしようもない少年の末期癌をあるいはその湖が癒してくれるのではないかという思いを次第に募らせていく。 
 満たされた生活のなかでなかば眠っていた精気がこうした状況のなかで次第に蘇り、俄かに輝き始める。 
 それは広大な大自然のなかであたかも力強いカーボーイとして再生されたかのように見える姿である。 
 そして少年の病を癒すための旅が実は自分自身の渇いた心を癒す旅でもあったということに思い至るのである。 

 なにげなく観た映画が強く心に残るということが時にある。 
 そんな時はすごく得をした気分になり、幸せな気分に満たされる。 
 この映画もそんな1本であった。 
 


 
製作・監督 マイケル・チミノ 脚本 チャールズ・レアヴィット
撮影 ダゴ・ミルサム 音楽 モーリス・ジャール
出演 ウッディ・ハレルソン/ジョン・セダ/アン・バンクロフト/アレクサンドラ・タイディング
 
 
 
 
 
 
 
4/9 パリのレストラン
(95フランス)
 
  
 
 長年客に愛された街角の小さなレストランが突然店をたたむことになり、レストランの主人夫婦が親しい客や友人たちを最後のディナーに招待することになる。 
 レストラン最後の日、見慣れた客たちが三々五々に集まってくる。 
 そしてオーナーシェフ自慢の料理の数々がテーブルに並べられ賑やかに最後のディナーが始まっていく。 
 そうしたなかで集まった人たちそれぞれの人生模様が様々な形で浮かび上がってくる。 
 この映画は題名の通りレストランを舞台にした一幕ものの芝居のような作品である。 
 そしてそのレストランの料理が出演者と同じ比重で次々と登場してくる。 
 いかにもフランス映画といった趣の映画である。 

 思えば映画にはレストランを舞台にしたものや料理が重要なファクターになるようなものが数多くある。 
 例えばイブ・モンタンがパリのレストランのウエイター(ギャルソン)をおしゃれに演じた「ギャルソン」。 
 マルチェロ・マストロヤンニ、ウーゴ・トニャッツィ、ミッシェル・ピコリ、フィリップ・ノワレといったイタリアとフランスの名優四人が演じる男たちがパリ郊外の屋敷で死ぬまで豪華料理を食べ尽くすという現代文明を痛烈に皮肉った映画「最後の晩餐」。 
 デンマークの小さな漁村で初老の姉妹に仕える女中バベットが宝くじに当選して大金を手にし、その金を使い、かってはパリの名シェフだったという腕を発揮して作った豪華な料理を村人たちに振る舞う「バベットの晩餐会」。 
 台湾人の三姉妹の恋愛模様がホテルの名コックだった父親の作る料理の数々とともに描かれる「恋人たちの食卓」。 
 また独特の映画文体で知られるアキ・カウリスマキの「浮き雲」は職を失った一組の夫婦が困難の末に小さなレストランを開くまでをとぼけたユーモアを交えて描く心暖まる物語である。 

 ジェニファー・ジョーンズとローレンス・オリビエの「黄昏」(監督ウイリアム・ワイラー)もシカゴの一流レストランが主要な舞台で、ローレンス・オリビエはそのレストランの支配人である。 
 「恋のためらい フランキーとジョニー」はレストランのコック(アル・パチーノ)とウェイトレス(ミッシェル・ファイファー)の大人の恋物語。 
 また同じような設定で「忘れられない人」(クリスチャン・スレーターとマリサ・トメイ)という心に沁み入るラブ・ロマンスもある。 
 また未見だがイタリア映画には「偽りの晩餐」という秀作もある。 
 メキシコ映画「赤い薔薇ソースの伝説」という料理が物語のなかの重要な鍵になった不思議な味わいの映画もあった。 
 マリアンネ・ゼーゲブレヒトの肥満体が強烈な印象を残した「バクダット・カフェ」はカリフォルニアの砂漠にあるさびれたレストラン(兼モーテル)を立て直す物語である。 
 「フライド・グリーン・トマト」もアメリカ南部の小さな町のレストランが舞台。 
 ここでメアリー・スチュアート・マスターソンが幼友達と純朴な老いた黒人とともにレストランを生活の糧にして健気に生きていく。 
 このように思いつくままを上げていくだけでもたちどころにいくつかの作品が数え上げられる。 
 「料理」や「レストラン」を話の中心に据えた映画は古今東西を問わずに数が多いということだろう。 
 なかでもヨーロッパ映画にその種の映画が多く見られるようである。 
 フランス料理に代表されるような食文化の奥行きの深さや料理に対する深い思い入れが映画の世界にも自然と現れてくるということなのかもしれない。 
 まさしく食を楽しむということが人生のなかで大きなウエイトを占めており、常に人生とともにあるということだ。 
 人生を描く際には自然と料理も描かれることになり、様々な人の行き交いがあるレストランも物語の舞台としては恰好の場所となるのである。 
 そんな食文化には当然のことながら強い自信と誇りが感じられる。 
 この「パリのレストラン」のオーナーシェフも同様で、自分の料理に強いこだわりと自信をもち、人一倍強い誇りをもっている。 
 だがその自信が病気によって突然奪われてしう。 
 鼻の奥に悪性の腫瘍ができ、そのために嗅覚が利かなくなってしまったのである。 
 この最後の料理もこれまでのカンを頼りに作っているだけなのだ。 
 だからこの夜を最後にレストランをたたむことを決意したのである。 
 現在進行形のレストランの風景の間に過去のレストランのエピソードがさりげなく挟み込まれることでその決意がいかに重いものであるかということが描かれていく。 
 レストランは彼らにとっては人生そのものなのである。 
 馴染みの客たちもそのことを十分すぎるほどに察して最後の料理を味わい尽くそうとしている。 
 料理を口にした彼らの幸せそうな顔。 
 そしてそんな客たちがいたからこそシェフは存分に料理の腕をふるえたという両者の良好な関係が窺える。 
 だがそれも今宵が最後なのである。 
 一抹の寂しさはあるものの「それが人生さ」といったおおらかな感慨を残してレストランの灯が消される。 
 祭りは終わった。ただ埋めがたい空虚感があるだけだ。 
 しかし、いかにも悲劇といった大上段に構えた語り方はしない。 
 あくまでも日常の繰り返しのなかにこの夜もあるのだといった淡々とした時間の流れが心地よい。 
 客たちが酒や料理で十分に満たされた幸せな表情で薄く降り積もった雪の道を静かに帰っていく。 
 そして誰もいなくなった夜中のレストランが映し出される。 
 カメラはゆっくりと厨房のなかへと入っていく。 
 そこには寝室で眠っているはずのシェフが料理台のうえで子供のように身体を丸めて眠っている。 
 静かに寝息をたてるその顔は安らかで満ち足りた寝顔である。 
 このまま永遠に目が醒めなくても悔いはないといった寝顔である。 
 まさに戦士の休息を思わせる。 
 そしてそれはかって彼の一人息子が幼い日に厨房の料理をこっそりと盗み食いをして、満ち足りた顔で眠り込んでしまった時と同じ寝姿であったのだ。 
 


 
監督・脚本 ローラン・ベネギ 脚本ミシェル・フィルド/オリヴィエ・ダニエル
撮影 リュック・バージェス 音楽 アンジェリーク&ジャン・クロード・ナション
 
 
 
 
 
 
 
4/9 ホーム・フォー・ザ・ホリデー
(95アメリカ)
 
  
 
 ジョディー・フォスターが監督したホーム・コメディーである。 
 出演者の顔ぶれがいい。 
 主役の長女がホリー・ハンター。弟にロバート・ダウニー・ジュニア。 
 母親がアン・バンクラフト。父親にチャールズ・ダーニング。 
 これに何人かの兄弟やその連れ合いたちが加わり、家族の愛や衝突が描かれるというよくあるパターンの映画である。 
 出演者たちの顔ぶれを見れば当然質の高いホーム・ドラマを期待するところだが、意外なことに期待はずれな結果に終わってしまった。 
 家族の衝突や行き違いそして和解にいまひとつ説得力がなく不完全燃焼である。 
 あれもこれもと詰め込みすぎて全体に焦点がぼやけてしまったようだ。 
 全員がドタバタと慌てふためいているだけの印象で、ドラマとしての盛り上がりに欠けるのだ。 
 「バックマン家の人々」「ワンス・アラウンド」「トーチ・ソング・トリロジー」といったホーム・コメデイーの秀作を組合わせたような作品を意図したのではないかと想像するのだが、その試みは残念ながら失敗したと言わざるを得ない。 
 「ワンス・アラウンド」ではホリー・ハンターが、「トーチ・ソング・トリロジー」ではアン・バンクラフトが似たような役柄をやっている。 
 とくに「トーチ・ソング・トリロジー」でゲイの息子との確執を演じたアン・バンクラフトがここでも息子からゲイの告白を聞いて嘆き悲しむ母親を演じている。 
 カミング・アウトする息子を演じるのはロバート・ダウニー・ジュニア。 
 ラテン系の派手な造りの顔立ちがいかにもゲイっぽくて似合っている。 
 こうした映画を観るたびに思うことだが、アメリカ社会で人の親になるということは相当タフな精神を要求されることなんだと思う。 
 というか、かっての平穏無事で誇り高かったアメリカの家庭生活というものは今や望むべくもない時代になったということだ。 
 家族の崩壊という危機と常に隣り合わせで懸命に生きているという印象が強い。 
 犯罪の多発化、凶暴化、低年齢化、そして麻薬問題、そうした社会の問題と家庭は無関係にはいられない。 
 また離婚の多さ、婚姻形態の多様化(すなわち家族形態の多様化でもある)、教育の荒廃、親子の断絶、こうした逆風のなかで家庭生活はまさに荒海で舵を失った小舟のようなものである。 
 そしてその荒波をなんとか乗り切ろうと必死で抗う姿がこうしたホームドラマの定型になっている。 
 おそらく今のアメリカほど理想の家庭を求めてやまない国はないのではなかろうかという気がする。 
 そう思わせるほど家族問題を真摯に考える映画がアメリカには数多いのだ。 
 
 
監督 ジョディ・フォスター 原作 クリス・レイダント
脚本 W・D・リクター 撮影 ラヨス・コルタイ 音楽 アンドリュー・マッカルパイン
出演 ホリー・ハンター/アン・バンクロフト/ロバート・ダウニーJr
チャールズ・ダーニング/ディラン・マクダーモット/クレア・デーンズ
 
 
 
 
 
 
 
4/23 乙女の祈り
(94ニュージーランド)
 
 
 
 よく言われることだが思春期の精神状態は一種の精神分裂状態にある。 
 精神的に不安定であり、様々な妄想に悩まされ、正常で客観的な判断が下しにくい状態にある。 
 自らの内部に正体不明の魔物を抱え持ち、些細なことに過敏な反応を示し、自己抑制が利かない。 
 最近よく聞かれる言葉に置き換えると「ムカツク」「キレる」ということになる。 
 それは恒常的なヒステリー状態といえるかもしれない。 
 そしてそんな状態のなかで時には常軌を逸した犯罪へと走ってしまうこともある。 
 映画「乙女の祈り」もそうしたアンバランスな精神状態にある少女ふたりが不可解な母親殺しという犯罪を犯してしまう物語である。 
 これは実際にニュージーランドで起こった事件を題材にしている。 

 孤独で閉じこもりがちな女子高生ポウリーン(メラニー・リンスキー)のクラスにイギリスから勝ち気で自己主張の強い少女ジュリエット(ケイト・ウインスレット、あの「タイタニック」のヒロインである。自意識過剰で自分本位、小生意気な少女を熱演している)が転校してくる。 
 対照的なふたりだがともに少女らしいロマンティックな夢の世界に遊ぶという共通項をもっていたことから急速に親しくなっていく。 
 最初は少女趣味的な妄想を満たすだけのたわいのないつき合いに見えていたふたりだが、それが次第に普通でない色彩を帯びるようになっていく。 
 お互いがそれぞれの分身であり相手のいない人生などはとうてい考えられないというほどのめり込んでいく。 
 そこに性的な匂いが微妙に加わることでさらに危険な気配を示すようになる。 
 実際にふたりがレスビアンであるというようなはっきりとした描写はないが、その入り口付近を不安定に彷徨っているような印象が映像のそこここから感じられる。 
 そんな気配を放ちながらエキセントリックな行動に走り次第にトランス状態になっていく様子が視覚的に凝った映像で表現されていく。 
 このあたりの話の盛り上げ方は実に見事で、ふたりが次第に現実から逸脱していく過程がスピード感のある映像や非現実的な映像でたたみかけるように描かれていく。 
 そんなふたりをこのまま見過ごしにはできないと大人たちが考え始めるのも無理からぬことであろう。 
 そしてなんとかふたりを引き離そうとジュリエットの転校を画策するようになる。 
だがこの計画が結局ふたりの危険な妄想をさらにかき立てることになり、火に油を注ぐような結果になってしまうのである。 
 絶対に引き離されたくないふたりは計画の首謀者である母親を殺害をすることを思いつく。 
 ふたりを引き離すことを強硬に主張する母親さえいなくなれば、ふたりは引き離されることはないという考えに囚われる。 
 母親こそがこの災厄の元凶で、彼女を殺害することが少女たちにとっての最大の命題になってくる。 
 いうなれば少女たちの空想世界による現実原則への逆襲といったところであろうか。 
 少女たちの思い詰めたらそのことしか見えなくなってしまう自分本位の行動が結局最期の一線を越えさせてしまうのだ。 
 そしていとも簡単に計画を実行に移すことになる。 
 まるで彼女たちが妄想の世界に遊ぶ行為の延長ででもあるかのような手軽さで。 
 だがその結末によって当然のように現実は破綻し、夢の王国は消え去ることになる。 
 そしてふたりは永遠に引き離されるという結果になってしまうのである。 
 事件の後ふたりは逮捕され、有罪判決を受けるが数年の後に釈放される。 
 「ふたりが二度と会わない」という条件のもとに。 
 こうして少女たちの危険で残虐な妄想の時間は終わるのである。 

 才気に溢れた不思議な味わいの映画であった。 
 森と緑の多いニュージーランドの風景とポップでシュールな幻想場面がうまく溶け合って一種独特の味わいのある映画世界が作り出されている。 
 あまり馴染みのないニュージーランド映画ではあるが、ジェーン・カンピオン、リー・タマホリに続く監督としてピーター・ジャクソンの名前は注目していく必要がありそうだ。 
 


 
監督・脚本 ピーター・ジャクソン 脚本 フランシス・ウォルシュ
撮影 アルン・ボリンガー 音楽 ピーター・ダゼント 美術 グラント・メイジャー
出演 メラニー・リンスキー/ケイト・ウィンスレット/サラ・パース/ダイアナ・ケント
 
 
 
 
 
 
 
4/27 エイリアン4
(98アメリカ)
 
 


 
 第3作で主人公のリプリーが死んで映画「エイリアン」も終わってしまったかに思えたが、死体の細胞からリプリーをクローン人間として蘇らせるといういささか強引とも思える方法で「エイリアン」シリーズが復活した。 
 「エイリアン」は第1作でリドリー・スコット、第2作でジェームス・キャメロン、そして第3作でディビッド・フィンチャーといった新進気鋭の監督をいち早く起用することで成功をおさめてきたシリーズだ。 
 どの監督もこのシリーズをきっかけにしてその後大きく飛躍を遂げている。 
リドリー・スコットは「ブレード・ランナー」という名作を作り、さらに「ブラック・レイン」や「テルマ&ルイーズ」といった問題作を作り出している。 
 ジェームス・キャメロンは「アビス」「ターミネーター2」「トゥルー・ライズ」などを経て「タイタニック」ではアカデミー監督賞を手にし、今やハリウッドを代表する監督となっている。 
 さらにディビット・フィンチャーは「セブン」「ゲーム」といった独特の感覚をもった映画を生み出して今や目を離せない監督のひとりである。 
 そして今回もその先物買いのジンクスを引き継いでフランス映画界の鬼才ジャン・ピエール・ジュネを監督に起用しているのだ。 
 ジャン・ピエール・ジュネといえばマルク・キャロとのコンビによる「デリカテッセン」や「ロスト・チルドレン」のシュールでおかしな映像で知られているが、その感覚を「エイリアン」でさらに発揮させるべく今回の監督に起用されたというわけである。 
 「デリカテッセン」「ロスト・チルドレン」とどちらも全編セットでSFXを駆使した撮影により人工的でキッチュな映画ならではの幻想世界が毒気たっぷりに描かれていた。 
 今回の「エイリアン」にもその味わいは残されているものの幾分洗練された印象である。 
 ひとつ間違えば悪趣味に陥るようなクドクドしさは薄められ、それが好きだった者にとっては多少物足りなさを感じるが「エイリアン」という枠組みのなかでの撮影ということを考えればこれは致し方のないところであろう。 
 ただし「ロスト・チルドレン」にも登場してきたクローン人間を扱っている点や彼の映画の常連である異形俳優ドミニク・ピノンやロン・パールマンを起用しているところなどにはジュネ監督らしさを残してはいるが。 

 ジュネ監督がこの映画を撮ったのと時期を同じくしてリック・ベッソンもハリウッドで「フィフス・エレメント」を撮っている。 
 どちらもフランスの映画監督であり、ハリウッドに招かれてSFXを多用した近未来物を撮り上げたという共通点があるためにどうしても両者を比較して見てしまうことになる。 
 「フィフス・エレメント」は残念なことに見事にずっこけてしまい、リック・ベッソンのファンとしてはなんとも苦い思いであるが、それに比べると「エイリアン4」の方はまずは及第点というところではなかろうか。 

 今回もエイリアンとの追いつ追われつの死闘が密室のなかで繰り広げられるが、エイリアンとリプリーの関係にこれまでのシリーズとは違った側面が描かれる。 
 前作でエイリアンの子供を宿したことから自らの肉体を死滅させてしまったリプリーだったが、後の時代の科学者がエイリアンを復活させるためにリプリーの遺体のDNAから彼女のクローンを作り上げるのだ。 
 そして彼女の胎内に宿っていたエイリアンを取り出すことに成功する。 
 それはエイリアンを強力な生物兵器に改造しようとするためのプロジェクトであった。 
 だがその計画が破綻し、絶対に逃げ出せないはずのオリをエイリアンが破って逃げ出したことから再び人間とエイリアンの死闘が始まるのである。 
 再生されたエイリアンは一時的であるにせよリプリーの胎内に宿ってその血を分けあったいわばリプリーの子供のような存在である。 
 そのためにリプリーとエイリアンの間には本能的な母子の情愛が生まれており、そのプリミティブな力によってお互いを強い磁力で引き寄せ合うのである。 
 ふたり仲良く寄り添って、実の母子のように抱擁し合うシーンまで登場する。 
そうしたことから今回のエイリアンとリプリーの闘いにはこれまでのものとはいくぶん違った様相を見せることになるのである。 
 怪物と人間の闘いに母と子の愛憎という要素が加わって屈折し分裂したものになっていく。 
 望まれずに産み落としてしまった出来の悪い子を涙ながらに抹殺せざるをえない母親の悲しみがリプリーの困難さをさらに複雑なものにする。 
 だから今回のエイリアンの最期には妙にもの悲しいものを感じることになってしまうのだ。 
 これまでのシリーズのような憎々しい怪物をやっつけたという爽快感はなく、打って変わって人間臭い哀れさを感じてしまう。 
 またさらにエイリアンの断末魔の叫びから人間の身勝手さを糾弾しようとする声なき声も聞こえてくるのである。 
 望んだ訳でもないのに勝手に再生させられ、都合が悪くなると殺されてしまう、そんな人間の理不尽な仕打ちを呪っているかのようである。 
 フリークスの悲しみとでもいおうか、映画「エレファントマン」で描かれた孤独な悲しみ、また「フランケンシュタイン」で見られたロバート・デニーロ扮するクリーチャーの悲しみとの共通性を感じるのである。 
 ところでこの映画にはエイリアンに限らず他にもフリークスともいうべき人間たちが多数登場してくる。 
 これもジュネ監督らしい特徴であろう。 
クローン人間である主人公のリプリーはもちろんのこと、宇宙密輸団のコール(ウイノナ・ライダー)さらにはドミニク・ピノンやロン・パールマン演ずる密輸団のメンバーもあえて言えばその類の人物たちである。 
 そしてそれをもっともよく象徴しているのが宇宙基地の秘密の部屋に閉じこめられた実験用のクローン人間たちである。 
 巨大な水槽に閉じこめられた奇怪な姿をしたクローン人間たち。 
 そのなかにもうひとりのクローン人間であるリプリーもいる。 
 そして生きながらにして地獄の苦しみを味わっているリプリーがもうひとりの彼女に対して「殺してくれ」と哀願するのである。 
 複雑に加工された肉体ゆえに自ら死ぬこともかなわぬクローン人間の暗黒の苦しみを思うと激しい戦慄を覚えてしまう場面である。  
 目を背けたくなるようなおぞましい光景をリプリーは強力な火炎放射器で焼き尽くす。 
 それは科学万能の果てに歪んだ世界を生み出してしまった人間の傲慢さに向けた怒りの炎のように見える。 
 これはいびつに歪んでしまった人間たちの悲しい終末の闘いの映画であり、リプリーなりの決着のつけ方を描いた映画でもあるということだ。 
 


 
監督 ジャン・ピエール・ジュネ 脚本 ジョス・ウエドン 撮影 ダリアス・コンジ
出演 シガニー・ウィーバー/ウィノナ・ライダー/ドミニク・ピノン/ロン・パールマン
マイケル・ウィンコット/ダン・ベダヤ/ブラッド・ダーリフ
 
 
 
 
 
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