幕末太陽伝 57日活
製作 山本武 監督・脚本 川島雄三 脚本 田中啓一/今村昌平
撮影 高村倉太郎 音楽 黛敏郎
出演 フランキー堺/石原裕次郎/南田洋子/左幸子
芦川いずみ/梅野泰靖/小沢昭一/金子信雄/山岡久乃
小林旭/二谷英明/岡田真澄/植村謙二郎/市村俊幸
どういう題名の映画かわからず、また前後の脈絡がなく、ある映像だけが鮮明に記憶に残っており、ある時、偶然その映像と出会い、「ああ、この映画だったのか」と腑に落ち、長年の宿題がようやく終わったような安心感に満たされるという経験が過去に何回かあったが、「幕末太陽伝」もそんな映画のひとつであった。
断片的に記憶していた映像というのは次のような場面である。
旅支度をしたフランキー堺が、寝静まった屋敷から足音を忍ばせて出てくると、誰もいないと思っていた屋敷の陰に狸のような顔つきをした田舎大尽の市村俊幸がおっとりと構えて待っている。
どうやらフランキー堺はこの男から逃れようと考えているらしいのだが、敏捷な江戸っ子のフランキーと、のたりとした田舎大尽の市村俊幸では波長が合わず、うまくごまかしきれない。
市村俊幸は久しぶりに田舎から上京して馴染みの遊郭にやってきたが、贔屓の相方がなかなか現れず、催促を受けた妓夫太郎のフランキーが口からでまかせに「あの花魁は死んでしまった」とその場しのぎの言い逃れをしたところ、それを真に受けた市村が花魁の墓に案内させようと先回りをして待ちかまえていたというわけである。
仕方なく墓場に案内したフランキーは何とか早くこの場を逃れようと適当な墓を花魁の墓に見立てるのだが、それが古い墓であったり、子供の墓であったりで、ごまかしきれない。
怒った市村が「本当の墓はどこだ」としつこくつめ寄ると、もうこれ以上はつき合いきれないと思ったフランキーは「どこでも、おめえさんのよさそうな墓を見立てておくんなせい」と捨てぜりふを残して逃げだしてしまう。
その背中にむかって市村が「これ、嘘ばかりついていると地獄さ落ちねばなんねえど」と言葉をかけると、フランキーは「地獄も極楽もあるもんけエー。おいら、まだまだ生きるんでエー!」と啖呵をきる。
そこへ寺の鐘がゴーンと一発、舞台の合いの手のように入り、一転して陽気なデキシーランドジャズが流れ始める。
そしてその軽やかなリズムに合わせるようにフランキー堺が軽快に走って遠ざかる。
鮮やかでスピーディーな語り口の映画的快感に満ちた場面である。
怪談めいた不気味な雰囲気が突然陽気な音楽に転調し、その明るい調子の画面にエンド・マークが浮かび上がるというキレのいいの終わり方が子供心にも強く印象に残ったのである。
また、この映画以前にもフランキー堺と市村俊幸のコンビで「フランキー・ブーチャンのああ軍艦旗」や「フランキー・ブーチャンの殴り込み落下傘部隊」といったふたりがコンビの映画が封切られており、ここでのキャラクターがやはり目端の利く江戸っ子のフランキーと鈍な田舎者の市村という組み合わせで、それとの連想も重なって印象に残ったのかもしれない。
とにかく長年気になっていた場面であった。
大学時代の友人に川島雄三の熱狂的なファンがおり、常々彼から川島映画の素晴らしさを聞かされていて、ある時名画座で「幕末太陽伝」が上映されていたのを目にし、その友人の言葉を思いだしてなにげなく入ってみたのがこの映画との新たな出会いであった。
そしてこの場面と再開したというわけである。
以来、私も川島雄三の奇妙な魅力の虜になったのである。
この映画の主人公左平次は川島の心情を強く投影した人物である。
それに対して、太陽族のスター石原裕次郎に高杉晋作を演じさせることで鮮やかな対比をさせている。
高杉晋作は左平次同様遊郭に居残って、そこを根城に御殿山の外国公使館焼き討ちを画策している。
そんな無謀とも思える行動力と若さに似合わぬ洒脱で世間慣れしたダンディズムをもった高杉晋作に太陽族のイメージを重ねて合わせることで、皮肉なからかいと心優しい共感を示している。
そんなふたりを中心に様々な登場人物たちの人間模様が洗練された笑いで描かれる。
舞台となる品川遊郭に次々と出入りする落語的な人間たちをしゃれのめしたり、皮肉ったりしながらモザイク模様のような人間模様を描いていく。
これはよく言われる「グランドホテル形式」と呼ばれる手法である。
ホテルのようなひとつの限定された舞台を中心にそこに出没する人間たちのドラマを重層的に描く手法であり、川島雄三の代表的な作品にはこういった地域限定型の形式をとるものがなぜか多い。
例えば「貸間あり」がある架空の安アパートに住む珍妙な人間たちの物語であるし、「しとやかな獣」も住宅団地の一室に住むある家族の物語で、カメラは舞台劇のように終始この部屋だけを写し続ける。
「わが町」は大坂下町の貧乏長屋に暮らす心優しき庶民たちの明け暮れが河童路地という限定された場所を中心に描かれる。
また「洲崎パラダイス・赤信号」も洲崎遊郭の入り口にある橋のたもとで小判鮫のように遊郭に吸い付いて生業っている居酒屋を舞台にしたドラマであり、特飲街というきわめて特殊で限定された場所が描かれている。
このように限定された場所にひとくせもふたくせもある人間を投げ込むと彼らがどんなふうに活動を始めるかという発想から川島映画がつくられることが多い。
そして、そこでの人間たちの右往左往を、まるで実験室の顕微鏡を覗き込むようにして眺めて楽しむといった態度が見られるのである。
「貸間あり」のシナリオを共同で書くことになった若き日の藤本義一がその時の体験を小説「生きいそぎの記」と題して書いているが、このなかに興味深いエピソードがでてくる。
シナリオを執筆するにあたって、川島が藤本に命じたことは、まずアパートの見取り図を書くことであった。
それは詳細をきわめたもので、丹念に彩色まで施していくという念の入れようである。
そしてこの作業に十日間もの日数を費やし、シナリオの執筆に詰まるたびにそれを拡げては新たな物を書き加えるという作業を繰り返すのである。
しかしこの一見無駄とも思えるような作業の繰り返しから登場人物たちのキャラクターが肉付けされていき、自然に人物が動き出すようになる。
そしてそこにある状況を設定すると彼らは生き生きと跳梁跋扈を始めるのであった。
そうやってきわめて川島的な人間喜劇が生まれてくるのである。
いい映画たるための条件のひとつにいかに細部をきめ細かくリアルに描けるかどうかということがある。
どんなに荒唐無稽な話でも本当らしい細部で固めることによって確かなリアリティーを獲得することができる。
そして、いい映画というものはかならずどんな細部もおざなりにせず、きっちりと描ききっているものである。
登場人物に関しても同様で、どんなに小さな役柄の人間といえども手を抜かずきちんと描いている。
時には、主人公以上に脇の人間に情熱をかけて描くということさえある。
川島雄三にもそうした傾向がうかがえる。
だからこそキャスティングが非常に重要なポイントになってくるわけで、たとえどんなに小さな役柄であろうと、たとえそれが物語の大筋に関係のない役柄であったとしても、信頼のおけるいい役者を使おうとする。
「幕末太陽伝」の場合を例にとれば、金子信雄、梅野泰清、織田政雄、岡田真澄、植野謙二郎、河野秋武、西村晃、小沢昭一、殿山泰司、井上昭文、山岡久乃、菅井きん、左幸子、南田洋子といった川島映画によく登場する達者な顔ぶれが揃っている。
こうした役者たちを自在に動かすことで躍動感に満ちた川島世界が出現してくるのである。
そしてそのアンサンブルのなかに笑いだけではない人間の愚かさや哀しさといったものを巧みに織り交ぜてゆくことで濃密な人生の貌を見せてくれるのである。
軽さと重さという相反する要素をさりげなく共存させていく。
そして、そこに奥深い厚みが生まれてくる。
まさに「細部に神が宿る」のである。
だからこそ、フランキー堺が演ずる左平次の胸のすくような活躍がますます冴えたものになってくるわけで、役者全員の調和のとれた見事さは何度観てもうならされてしまう。
スピーディで切れ味のいい展開のなかで、どの俳優も実にはつらつと動いている。
まさに、生きている。生きのいい演技を展開しているのである。
そして、その生きのいい演技のなかから生きのいい笑いが生まれてくるのである。
「生きいそいだ」川島雄三の凝縮されたエネルギーがその生きのいい笑いのなかから透けて見えてくるようである。
|